第6話 8月23日 杣木沙雪

 すべては旋律……なのかも知れない。

 あらゆるものには旋律がある。

 たとえば、生き物は生きるだけで音を生む。


 心臓の鼓動、呼吸、血液の循環。歩くときの微妙なリズム。

 身体を動かす際の振動。

 力を入れたときの筋肉の動き、髪をかき上げる、

 歯を噛みならす、まぶたを動かす……。


 どんな些細な動作であっても、それは空気の振動を生じる。

 大気中で空気をまったく振動させずに運動することは、物理的にほとんど不可能だ。


 生きていないもの、たとえば機械でも動く限りは同様のことがいえる。

 動かないビルや山だって、理屈は同じだ。

 たとえば、風が吹く。ほんの微細なものだけど、風を受けたビルには振動が生じる。

 およそ動かないようなものだって、他からの音を反射することで振動の周期を変化させてしまう。


 空気の振動――つまり、音。

 音が連なって旋律になる。


 世の中は旋律で満ちている。

 聞こえるか、聞こえないか。

 違いはほんの些細なことだ。


 僕には聴こえる。

 耳を澄ませばいつも歌が聴こえてくる。


 高い歌、低い歌、心臓の鼓動、風の声と窓硝子の輪唱。人工の音、自然の音。


 人のまばらな通りでも歌はいくらでもある。

 特別何をしなくても、ほんの少し目を閉じて感覚を研ぎ澄ませば、人狼の五感は洪水のようにありとあらゆる音色を集めてくる。


 僕の聴覚は、膨大な音の濁流からそれぞれの音階を聴き分けることも、やろうと思えばできる。

 こんなにも音が溢れていたのかと驚くくらい、世界にはそれこそ、ありとあらゆる旋律がある。


 夏の、遅い日暮れが西からやってくる。

 茜の色が追い立てられる。薄墨を流したような灰色が自分の領地を主張しだす。


 青々とした山の稜線が徐々に輪郭を失い、闇と空に紛れて区別などつかなくなる。

 夜が来る。




「ふわああぁぁぁ」


 あごが外れるほど大あくび。

 固くなった背中の筋を片手でもんでほぐした。


「遅いなぁ」


 時間を確かめると十分ほど経過していた。


 喫茶店『タラモア・デュー』。

 僕の伯父おじさんの経営しているこぢんまりとした喫茶店は、加賀瀬かがせ高の通学路から少し外れたところにある。


 この店は、加賀高生が帰り道で都合よく寄り道できる、ちょっとした穴場でもある。

 渋好みの髭の経営者は純喫茶を目指しているみたいだけど、その意志とは裏腹に、ミルクティーとパフェが人気の女子生徒の社交場と化しているのが実情だ。


 そして多少の問題はあっても、この店は僕にとって必要不可欠な暮らしの一部分でもある。

 一人暮らしの僕が得ている日々の糧の大半は、伯父さんのところでやっている週四回のバイトに依存している。


 同級生や先輩後輩相手のウェイターというのは意外に疲れる仕事だ。

 なんとなく気恥ずかしいし、気苦労も多い。


 ウェイターだけではなく、他にもサンドウィッチとかの簡単な料理もするし、時々何故か出前なんてこともする。

 たまに伯父さんが数日店を空けた時には、一日中店番をしたりもしている。……もちろん、学校が休みの間に限るけど。


 とにかく、やたらと疲れるのだ。


 もう一度、携帯電話の時間表示を確かめる。

 さらに5分が経過。

 ……何かあったのか?

 それとも――


 昨夜。

 降って湧いたみたいに現れた二匹目の忌の居所には心当たりがあった。


 あまり嬉しいことではない。

 心当たりがあるってことは、つまり、僕の身近に忌が隠れ潜んでいるってことになる。


 忌は人を狩る。

 人を狩り、人を喰う。

 喰うために人に化け、人に混じる。

 化ける――忌は擬態する。

 擬態した忌と人を区別することは難しい。


 けれど、忌は〈面〉を持っている。

 擬態したときの姿と同じ顔の〈面〉を、躰のどこかに、必ず持っている。

 どんなに周到に擬態する忌であっても〈面〉を変えることはできない。

 つまり、〈面〉を見れば、忌の擬態がどんな顔をしてるかは区別がつく。


 あの時、すれ違いざまに見た忌の〈面〉。

 ……その顔を僕はよく知っている。


 くっ、と店のゴミ箱を乱暴に蹴りつけた。


「……っひ」


 慌てて店から出てきた女の子が硬直した。

 怯える小動物みたいな眼差しで、震えるゴミ箱と苛立ちをあらわに蹴りつけた僕を見ている。


 ……なんてタイミングの悪い。

 近づいてくる彼女の音は聞こえていたはずなのに考えることに夢中で、また聞き逃してしまったらしい。


 どう見えただろう。

 まさか、いつまでたっても出てこない待ち合わせの相手にいらついて怒り出した――ようには見えなかったろうか。


 大丈夫……だろう、たぶん。


「あ……あのっ……随分……待たせちゃって……」


 ぜんぜん大丈夫ではない。

 彼女はほとんど涙目だ。


「たいして待ってませんよ、杣木そまぎさん」


「ごめん……なさい。その……わたし、なんでも……とろくて……」


 軽い笑いでごまかせそうにないほど空気が重い。

 どうすれば場を和ませることができるのか、と思案するのと同じくらい真剣に、杣木そまぎ沙雪さゆきさんの顔をもう一度確かめる。


 今日一日、何度も見て確認した。

 やっぱり……彼女はあのときに現れた忌と同じ顔をしている。


 杣木沙雪さんは、『タラモア・デュー』のウェイトレス。ようするに僕のバイト仲間でもある。

 加賀高生ではなくて、少し離れたところにある公立陣義じんぎ高の生徒だ。三年生だから僕よりひとつ上。就職組だそうで、夏休み中もバイトに勤しんでいる。

 それ以上のことはわからないけれど……。


 増加する女子高生客対策に店員倍増を検討していた伯父さんは、美人ウェイトレスによる男性客増加の一石二鳥をあてこんで沙雪さんを雇ったらしい。

 伯父さんの些細な計算ミスは、沙雪さんが予想を上回る剛の者だった、という点に尽きる。


 最初の三日間に破砕したお皿の数が37枚。

 ファミレスでもあるまいし、喫茶店でこの枚数を叩き割るのはやろうと思っても難しい。


 当初の目論みだったウェイトレス業にも問題が山積みだった。

 よくいえば人付き合いの苦手な、悪くいえば対人恐怖症すれすれな彼女は、注文を取りに行く程度のことでも、端で見てて気の毒なほど緊張する。

 注文を聞いてない、お冷ややコーヒーをお客にふりかける、なんてのは序の口だ。

 一部の客筋には、今でも杣木沙雪の名前は恐怖の伝説と共に語られている。


 かくて。

 可愛いウェイトレスが手に入ると狸の皮を数えた伯父さんと、『可愛いウェイトレスもどき』をようやくやめられると喜んだ僕の思惑は、4日目には挫折していた。


 不思議なことに沙雪さんは、コーヒーの淹れ方だけは絶品で、それが今も伯父さんが彼女をバイトとして雇い続けている理由だろうと推察している。


「その、狭山……さん?」


「あっ……いや、なんでもないですよ。行きましょう。今日は送っていきますから」


「でも……その……悪いし」


「困ったときはお互い様でしょ」


 沙雪さんの顔色が少し悪い。

 風邪でもこじらせたらしく、朝から体調が思わしくなかった。


「熱はどうですか?」


「少し……あるかな。その……あの、一人で……」


「なら、早く帰って休まないと。風邪くらいちゃんと休めば、一晩で治りますよ」


「そんな……あの」


「沙雪さん。途中で倒れたりしたら大変じゃないですか。さ、行きましょう」


 まだなにか言いたそうな沙雪さんの背中を押すようにして、僕は一緒に歩きだした。

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