第5話 8月22日 もう一人の忌
車につけ、オートバイにつけ、迅く疾るモノほどに低く低く構えるものだ。
奴は気がつけば己が目の前にいたと感じに違いない。ほとんど瞬間移動したようにも見えただろう。それは人狼の誇る俊敏さの現れだ。
地を這う肉弾となった己は――右肩から左の爪で袈裟に懸けた。
右手は己の利き腕だ。
そして擬態を解いて本来の姿に戻った今でも、習性としての利き腕は残っている。
威力、狙いの正確さにおいての利き腕の有用性はある。
しかし、あえて左腕の爪で襲いかかる。
殺傷には二通りの方法がある。
一つは打撃などで強い破壊力を加える方法。
もう一つは、生理的に脆い個所――人にたとえるならば関節などに力を加えて破壊する方法だ。
己は、その両方の手順を同時に踏んだ。
奴の忌化の現れていない右面は、ヒトのときの姿のままだ。
忌としての特徴を誇示している大型化した左腕から狙うよりも、脆いと思われる右腕側から攻撃をしかける。
勘だ。
経験と、人狼としての勘がそう己に告げた。
右から攻撃せよと。
奴の肩口が、断ち割れていた。
己の走らせた、爪の仕業だ。
忌の顔が歪んだ。
無邪気な笑みが、手負いの獣の断末魔に、だ。
ずんと、胸の深いところに何かが突き刺さる。
「――きみの年も名前も知らないけれど、僕はこれからきみを殺す」
廃工場の中で告げた言葉を繰り返す。
忌が吼えた。
猛々しい猛獣の声で。
「でも、きみのことをずっと憶えている」
風を裂く音。
人型の忌の急所は人間と変わらない。
己の爪は、正確に胸を……肺と心臓を真横に切り裂いていた。
肉を裂くという感触はほとんどない。
豆腐に包丁を差し込むような手応えのなさは、人狼の爪がとてつもない凶器であることの証明だ。
返り血に頭から真っ赤に染まる。
まるで世界全部が血に染まってしまったようで。
僕はふと、空を見上げた。
ほのあおい月が輝いている。
何も語らず、何も告げず、ただ永劫一夜のように微笑み続ける女王のように。
僕は失策を犯した。
名も知らぬ彼女に見入ってしまっていたせいかもしれない。
つまりは、聴き逃してしまったのだ。
どんな能力も持っているだけでは意味がない。
能力は所詮付属物にすぎず、使い道を誤れば役に立たない……。
そんなふうに教えられていたというのに。
僕は失策を犯してしまった。
気がつけば、音が、忌の旋律が迫っていた。
そして。
風を裂く音――背後の死角から。
音が、僕に向かって放たれた。
おーんおんおん。
遠くで獣が吠えていた。
美空先輩はふわりと舞い降りる。
緋袴を翻し、音もなく路地へ踏み込む。
その動作に迷いはない。
確実に、一歩ずつ足を進める。
夜属として。
鍛えられた狩人として。
「……宗哉くん」
問いかけるような先輩の目に、僕は小さくうなずいた。
「仕留めたのね」
バケツの中身をぶちまけたように、壁も地面も一面に深紅が飛び散っているのをさも当たり前のように先輩は立っている。
女の子の形をしたもの――忌であったものは、見分けすらつかない残骸になって辺り中にばらまかれている。
手、足、胴、首……
完全に破壊され、うち砕かれている。
寸刻前には生命を有して動いていたのだと推測することさえ不可能なほどに。
飛び散り、踏みにじられている。
濃厚な血の芳香がたちこめる。
そのただ中で、僕も深紅に濡れていた。
まるで、血肉を頭から浴びたように。
目の前の結果を、まるで夢のような出来事のように見下ろしている。
夜属ではなく。
ヒトとして。
僕はお腹を押さえた。
「二匹目が……いました。どうやら一匹じゃなかったみたいです。不意を打たれて、それで……」
じゅくじゅくと血が溢れてくるのがわかる。押さえた掌が生暖かい感覚を伝えてくる。
穴は背中から腹へ抜けているのだろう。
常人なら明らかに致命傷だけれど、掌の下で見る間に塞がっていく。
これこそ、人狼の能力。
この世界には、人狼というバケモノがいる。
南スラブには、神が人を創造したのを見た悪魔が同じく人を作ろうとして、狼を作ってしまったという伝承があるらしい。それは、創造主たる悪魔にも恐れられる力を持っていたという。
あるいはケルトには、人に森に棲む知恵をもたらすために、湖を渡って狼男となり、やがて人に戻り帰って来るという伝承と、神事があったという。
この国では犬神と呼ばれている。
御犬とも呼ばれ、神の使いとされる。
逆に、憑き物の一種と忌まれることもある。
あるいは、魔除けや農業、狩りの神として信仰され、現代でもその名残として狼系の狛犬が神社に残っていたりもする。
民話の多くは脚色された伝説に過ぎないけれど、真実の断片は散りばめられている。
人狼種が不死身に近いのは、事実である。
「……一匹、逃がしたのね」
僕はうなずいた。
背後から突然現れた忌は、僕の反撃で手傷を負ったはずだけれど、この路地で掻き消えるようにして姿をくらましてしまった。
美空先輩は平然と血と臓物のたまりへ踏み入る。
ぴちゃりとたまりを踏んだ草履の下で音がする。けれど、どのような嫌悪も酸鼻も先輩の表情には現れない。
冷ややかな眼差しで検分する。
「これで三体目ね。もう一体いたとは気付かなかったけれど」
眉をひそめもしない、深山に横たわる湖面のように透き通った横顔だった。
「手負いで逃したのは厄介かもしれないわ」
「……心当たりが、あるかもしれません」
「忌の行き先に?」
「ええ」
そう、僕は、知っていた。
あるいは、知っているかもしれなかった。
夜気を払うほどぶ厚い、肉と血の匂いが、いつの間にか、ゆるゆると消えつつある。
血のたまりも、はらわたの山も、同じように、はらはらと消えていく。
僕が満面に浴びた返り血も、美空先輩の袴が吸った血溜まりも、例外なく霧散していく。
形のあるものも、ないものも、砕け、崩れ、まるで満開の桜が散るような、薄桃色の花弁のようになり、風に吹かれてこともなげに消えた。
花びらの最後の一片が吹きさらわれると、惨劇を連想させるものは何も残されてはいない。
僕と。
美空先輩と。
少女が、いる。
ただ一人、少女が。
糸の切れた人形のように崩れて。
無力に陵辱されていたはずの少女が。
少女には。
鋭い爪はない。
長く捩れ、節くれだった腕もない。
伸びやかな身体には傷一つなく。
瞳にはなんの光もなく。
その口が呼吸を紡ぐことも、もはやない。
彼女は。
人ではない。
けれど、忌でもない。
ゆるゆるとぬるい風に運ばれた雲が月を隠し、すぐに顔を出す。
ほの青く染まった路地に横たわるのは――
名も知らぬ、ただの、骸だった。
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