第4話 8月22日 ウデ忌との対峙

 耳を澄ませば旋律が届く。

 カラカラと、遠く遠く世界の崖てからやってくる夜の歌だ。

 壊れた歯車の回る音が聞こえてくる。

 壊れた世界の音がキリキリと回り出している。


 そして、今夜も――

 あおぐろく沈む夜のうたを僕はきく。


 僕はうずくまった忌の少女を見下ろしながら、ふと、彼女の年齢も名前も知らないのだという事実に思い当たり、寂しさをおぼえる。


 敵意を明らかに、僕を見上げる彼女の前に、僕は一人立ちはだかって爪を研いだ。

 垂らしただけに見える僕の右手の先に生えた5センチもありそうな鋭い爪。

 それは鉄板でさえもバターのように切り裂く、忌たちも恐れる凶器でもある。


 少女が伏せたまま、蟹のように横に這う。

 左腕と集光性の瞳孔を除けば、同世代の普通の女の子と何も変わらない。

 ボロボロにはなっているけれど、近くの学校の制服を着ている。

 それが、かえって質の悪い冗談めいていた。


 ――忌。


 どんな大型捕食獣よりも恐ろしい、あやかし

 人に擬態し、人に混じり、人を喰らう。

 忌は人を狩る。


 だから、僕は……僕らは忌を狩る。

 僕は人間ではない。

 人外の、けもの――人狼と呼ばれる夜属よるぞくだ。


 彼女が笑った。

 蜘蛛のように這いつくばった異様な格好と片手の不気味ささえなければ、それはあどけないといってもいい、年相応の表情に違いない。

 けれど、僕の耳は『彼女の心という現象』が、凍りついた白樺の枝のように冷たく鋭く色のない――あどけなさとはまるで異なる音階の旋律で作られていることを、僕に教えてくれる。


 その旋律が、『忌という現象』の音色だ。


 僕は知っている。

 あどけない笑みは、忌の選択した狩猟方法――高度な擬態でしかない。


 ある種の昆虫が自分は無害な蟲だと装うように。

 あるいは保護色で獲物に近づくハ虫類のように。


 それでも、僕は迷い続ける。

 知っているからといって、迷いなく生きていけることばかりではない。

 隙をつくように遠い間合いから鞭のようにしなった腕を、飛び退いて避ける。


「――っ」


 僕はほぞを噛み、地を蹴った。

 世界が流れ、音が止まる――そんな速度で僕と僕の爪は駆け抜け、爪の軌跡を追うように緋色の線が弧を描いた。

 爪がえぐった忌の胸から鮮血が飛び散る。


「ひぃ――」


 少女のような悲鳴を忌があげる。

 忌の血はあまりに赤く鮮やかだ。

 人ではない怪の体液はどこまでも人を連想させる色彩で、夜気にむせかえるような血臭をふりまいていく。


 その色と臭いが確信させる。

 ああ、たぶんこれからもずっと、僕は彼女らに僕の迷いの影を見つけながら、長い夜の道を歩いていくことになるだろう。


 伏せていた忌が跳ね飛んだ。

 僕の頭上数メートルの高みを、三本の手足をたわませて越えていく。

 ひと飛びで距離は10メートルに広がった。


 踵を返した僕に、忌が異形の左手を薙ぐ。

 爪の届くはずのない距離だ。

 背後のブロック塀に横一文字、鏡のような綺麗な断面が走る。


「ひゅぅーーーーーーるぅ」


 荒野を渡る北風のような咆吼をあげて、忌が狼狽を現した。


『切り落とす能力』……とでも呼べばいいのか。

 何もない空間を『切断』という現象が移動して物体を破砕する力。

 廃工場で四人を、なで斬りにした能力だ。

 不意打ちで、しかも、どんな光も色も発さない。


 彼女には、それをどうやって僕が避けることができたのかわからないのだろう。


 彼女にとって運の悪いことに、僕は彼女の力を一度視た……正確には聴いた。

 だから、僕には彼女の行動が読める。

 僕は、彼女自身の行動の旋律を聴いている。

 旋律は彼女の意図と行動を語ってくれる。


 だから。

 聴き分けている限り、僕の反応は彼女よりわずかに早くなる。


 それが僕の能力……


 ――『世界に現象する音を聴く力』。


 狼には闇夜を見通す目がある。

 犬科特有の優れた嗅覚もある。

 それ以上に優れているのは、実は聴覚だ。


 犬科の動物が、人間に聞こえない波長の音をきちんと聞き分けるように。

 狼以上に、人狼の聴覚は優れている。

 そして、その聴覚のより原初的形。


 それが――


『世界に現象として現れるあらゆる事象を〈音〉として認識することのできる』


 僕の能力だ。


 頬についた彼女の血を拭った。

 指先に赤い染みがべったりとつく。


 彼女を見据え、昼の彼女の微笑を思い、夜の彼女をまた思う。

 その一つ一つを忘れないように、

 せめて心に刻みつけるようにして、

 僕は……擬態を解いた。


 人に混じるために夜属がとる、人の姿を。

 昼の世界に生きるための仮初めの姿を。

 僕は捨て去る。


 ぎりぎりと音を立てて犬歯が伸びる。

 爪が皮膚を破って鋭くなる。

 堅く、こわい獣毛が全身を薄く覆っていく。

 筋肉と骨格が、軋み、ねじ曲がりながらその質を変えていくのがわかる。


 普通、人狼といったら想像する姿と、人の姿のちょうど中間くらいの格好になる。

 遠目には大柄な人間くらい、にしかわからない。


 完全に擬態を解いて、人狼の、本当の姿を露わにするのは諸刃の剣だ。

 それは獰悪どうあくで、凶暴で、猛々しい。

 それの持つ力に比例するように。

 中途半端な格好になるのは神経と労力を費やすけれど、獰猛な衝動にひきずられて何をするかわからないよりずっとましだ。


 オレは疾駆した。

 変身を遂げながら10メートルはあった彼我ひがの距離を、瞬きする間に詰める。


 奴は、気付いたようだ。

 時間があまりないことに。文字通りの意味で瞬きする間に己は奴の胸元に滑り込む。そして、一度、爪を振るう。

 只一度の、それで終わりだ。


 全てを終わりにしないために、奴にできることは懐に入られる前に己を殺す――あるいは接近を不可能にすることだけだった。


 それは切断の望み。切断の意志。

 今度はわざわざ腕を振ったりはしない。さっき腕を振ったのは、いわば動作によって能力に決意を伝える所作だ。そんなことをしなくても相手は力を行使できるのだ。


 奴は一度、腕を振って能力を使って見せている。

 己がそのことを憶えていれば――そして腕の動きに注意を払っていれば。戦士として優れているならばいるだけ、不意を突かれて両断されていたかもしれない。


 ――狩りを生業とするモノの、高度なかけひき。

 ざわざわと背筋を這い上がってくるものが己に歓喜をもたらす。


 相手の予感する光景を聴く。

 だが、それは考え違いだ。

 己は相手の動きを視て、それから『切断』を逃れたわけではない。

 奴の予感する、そんな光景を「聴き分けた」に過ぎない。

 だから、奴の弄する駆け引きは、徒労だった。

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