第9話 7月28日 かつての恋人

「――宗ちゃん?」


 彼女の声が、それだけで僕の全部を奪ってしまった。


 照れも、恥ずかしさも、狼狽も、困惑も、何もかもたった一言で奪ってしまうものがあるとしたら、間違いなくそれがそうだった。


 本当に、言葉通りの意味で絶句して、僕はプールサイドへ振り返った。

 振り仰いだ、といってもいい。

 予想通りのものが僕を出迎えた。


 過ぎ去った時間の分、いくらかは成長していたけれど、彼女は一目で彼女だとわかる彼女のままだった。

 だからだろうか。僕はいまさらのようにどぎまぎしてしまう。


「やっぱり……宗ちゃんだね」


 そう言って、三年前と同じように屈託もなく、彼女は僕に笑いかけた。


「どうしたの、そんな顔して。わたしのこと忘れちゃったの?」


「み…………お…………」


 津波のように押し寄せてくるさまざまな記憶に流されて、とぎれとぎれに呟くのが精一杯の僕は、それ以上の言葉を口にすることができなかった。


「やっぱり憶えててくれたんだね、宗ちゃん」


 僕にとって朝比奈あさひな水緒みおは、忘れられない先輩だった。僕は彼女の春の風みたいに澄んだ匂いのする髪も、微笑みながら背筋を伸ばして歩く後ろ姿もよく知っている。


 触れあって、並んで歩いて、傷ついた三年前のことは、三年経って断ち切ったつもりでいた。

 けれど、僕の首には、僕自身にもわからないところで見えない首輪がついていたのかも知れない。


「元気そうでなによりね。今日は……一人じゃないんだ。その人は……彼女?」


「え、あ……いや、通っている高校の先輩で……嘉上美空さん。先輩……この人は僕の……中学の頃の先輩で、朝比奈水緒」


 理由はわからないけれど、何か状況が非常によくないと、そういう気配だけは察することができた。


「へぇー、そうなんだ。宗ちゃん、やっぱり年上にもてるのかなぁ」


 水緒は目をぱちくりさせながら、なんだか嬉しそうに僕と美空先輩を見比べている。

 僕は何より混乱の極みにあったから、美空先輩が神妙な――いっそ強ばったといってもいいような顔つきでいるのに、気をまわす余裕はなかった。


「こんにちは、嘉上さん。朝比奈です。水緒って呼んでね。宗ちゃんとは前によく一緒に遊んだの」


「はじめまして、朝比奈さん。嘉上です。美空、でかまいません。狭山くんには学校でよくお世話になっています」


 何の変哲もない挨拶だというのに、どうしてこう得体の知れない緊張感が漂っているんだろう。

 背景に重苦しい特殊効果がつけば、こんなに相応しい状況はない。


 先輩と水緒はにこやかに談笑している。

 どういうわけか、話も弾んでいるようだ。

 なのに、僕の足は勝手に退路を探しており、無性に胃のあたりがきりきりと差し込んでくる。


「お兄――」


 僕を見つけて駆け寄ってきた美星ちゃんが、敏感に殺気にあてられて哀れにも凍りつく。


 先輩と水緒と、それから僕へ交互に懇願するような目を向けるけれど、それ以上、言葉を発することもできないでいるようだった。


「おに……ぃ…………」


 まさに、蛇に睨まれた蛙のごとし。

 かくいう僕も美星ちゃんと同様の有様で、まったく無力だった。

 頭上に輝く太陽まで、舞台に用意された書き割りのように感じてしまう。


「どうしたの、みんな」


 天の配剤か、綾乃先生が顔を出してくれた。

 なんといっても聖職者。加えて最年長者。ここは大人な対応で、この不穏当な場をきれいに納めてくれると信じたい。


「……あら、朝比奈さん」


「あ……。こんにちは、佐倉先生。いつぞやはお世話になりました」


「……先生、水緒と知り合いなんですか?」


 泣き面に蜂か、と絶望的な面もちで先生に尋ねてみると、意外に簡単な解答が返ってきた。


「うん。あたし、彼女の大学のOGなの。研究室とかで今でも時々顔合わせることがあったりするんだよ。でも、狭山君たら…………年上の彼女を呼び捨て?」


 カナリヤを食べたばかりのネコみたいな顔で、にやにや笑いながら、先生が囁いてくる。


 く――っ、墓穴は掘るわ四面楚歌だわ、まさに泣き面に蜂状態だ。


「………………中学の頃、色々お世話になって」


「先生にも言えないことなの!」


 そんな、心底楽しそうに笑ったまま、聖職者みたいな台詞で迫られても言えません。


「ね、相談なら聞いてあげるから。先生、こう見えたって恋愛の一つや二つ経験あるんだからね」


「……お願いだから、そっとしておいてください」


 ため息混じりにそう答える。


「宗ちゃん」


 原因不明の決闘めいた状況の当事者だったはずの水緒が、にこやかに近づいてくる。


「あれ……その、先輩は?」


「美空さん? 用事があるから帰るって」


「――――はい?」


 さぞかし間の抜けた顔をしていたことだろう。


 慌てて先輩の姿を探してみても、赤いワンピースはもうたくさんのお客に紛れて、どこにも見あたらなかった。

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