第19話 8月4日 嘉上神社にて
……どれくらいそうしていたのか。
気がつくと、畳敷きの和室に僕は疲れたように座り込んでいた。
手を引いているのは美空先輩で、引かれるままにたぶん、嘉上家にまでつれてこられたらしい。
心がここになくても身体は動いてくれるという新しい発見を喜んだり驚いたりする気力もなくて、そもそもいつの間に先輩が迎えにきたのか、どうやってここに来たのかも憶えていない体たらくだった。
先輩が蒲団を敷いている間、ただただ呆然としていて、何を考えたわけでもなく、古い蛍光灯の豆球がオレンジ色にしてしまった客間の端から端へ視線を彷徨わせていた。
「今夜はここで休むといいわ」
先輩の言葉は風の音と同じで、空虚に響く。
「気は使わないでいいのよ。父さんは会合があるから明後日まで帰ってこないし、今日は美星も友達の家に泊まりにいって居ないから」
優しい布と優しい手が僕の頬にあてがわれる。
濡れたタオルで先輩が拭いているのだと、その程度のことは理解できた。けれど、涙のあとでもあるのか単に汚れているのかは、どちらでもよかったし考えもまわらなかった。
触れてくる他人の気配と体温と言葉は、僕に人心地をつけさせる。
そうなると頭の外側へ放り出していた思考が返ってきて、僕に幾重もの後悔と苦悩と恐怖と慟哭と自己嫌悪を強要する。
「…………そうや、く…………」
先輩が顔をこわばらせたので気がついた。
知らぬ間に涙が溢れていた。
後から後からとめどもなく流れて落ちる。
声をあげて泣くことができれば少しは気も晴れたろうけれど、どうすれば泣けるのか、それすらも僕は忘れてしまったらしい。
だから。
僕ができるのはただ涙を流すことだけだ。
「…………宗哉くん」
先輩が頬に触れ指先で流れる雫をぬぐう。
「あなたは、間違ったことはしていないわ」
初めて聞く先輩の声だった。
羽根でなでるように優しい声だった。
母親が子供を慈しむような、そんな声だった。
「今は何も考えないで」
泣きじゃくる子供にそうするように、先輩は僕を胸元に抱き寄せた。
「何も考えないで、眠って、朝になれば」
「…………朝に、なれば?」
「うん。朝になれば、少しは落ち着いて……」
「朝になっても、水緒は、もういない――」
「宗、やく……っん?!」
ずっと、ぎりぎりのところで張り詰めていた不安定な細い糸が、ぷつりと音をたてて切れ、僕は猛然と狂ったようにかぶりを振った。
「やめなっ……やめ、やめて!」
制止しようとした先輩を振り払い、痣がつくほど強く腕を掴んで突き倒す。
「やっ……あ!」
手加減のない力に先輩が悲鳴じみた声をあげた。
それでも先輩は僕を止めようと腕を掴む。
掴んで離さない。
もみあった。
押しのけ、突き飛ばし、ねじ上げ――
我に返った時には、荒い呼気で先輩の上にまたがり、華奢な身体を全身で組み伏せていた。
「ぁ………………」
かすれたような、喘ぎを、先輩がもらした。
押さえ込まれた上体をねじるようにそむけ、怯えの混じった目で僕を見上げている。
すぐ後ろから、凶悪で狂暴で獰猛な何かが迫ってくる。
その、心に猛った衝動へ、成す術もなく身をまかせてしまいたいという欲望を押さえ切れない。
足を止めれば後悔か、それとも悲痛か。いずれにせよ何か鋭いものに捕らえられてしまう。
それが恐ろしく、黒い獣の牙から逃れようと恐慌をきたしたねずみのように、僕は無様に怯え怖れ、理性の手綱を自分から手放そうとしていた。
呼吸が荒い。
僕の呼吸が荒い。
先輩の呼吸が荒い。
誰もいない静かすぎる家中に、僕たちの呼吸だけが木霊し、近づき、重なり、また離れていく。
上品な唇が、小さく、言葉のかたちに動く。
「や、…………ぁ……」
拒絶だったのか、ただの吐息だったのか。
どちらにしても、それが最後の引金だった。
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