第21話 9月21日 美空と父[三人称視点]
嵐が来たのだ、と思った。
心の中の話である。
美空はいつもと同じ自動人形のような足取りで、夜の嘉上神社を横切った。
物言わぬ月が差しかかっている。
雲が早い。
己を静めるためにも、水垢離をしようと思った。裏手へ回ることにする。
切れるように冷たい水が肌をすべる。
フツフツと己の内から沸きあがる熱のために、身体から湯気が立ち上った。
帯でしっかりと締める。
緋袴を手に取り、お腹にあてる。帯を後ろへ回してから前へ持ってくる。その帯を前でクロスさせて背中で結ぶ。
後ろについているヘラを前の帯びの結んだところに差し込んで、後ろの帯を前へ持ってきてそれをしっかりと結ぶ。
最後に、いつもは身に付けない薄絹をまとった。
巫女装束を着ると身が引き締まるような気がすると美空は思う。
それは、世俗から離れた生活をしていたからというわけではないだろう。
濃い影の落ちる境内を渡り、本殿の奥へ向かう。どこにいるのかはわかっている。
化け物だから、と美空は思う。
いつのもように父の部屋の障子を開ける。
やはり、父はそこにいた。
正座して、美空に背を向け、何かを思案しているようにも見える。部屋の明かりは落ちていた。雲間から差し込む月が暗い部屋を薄青くぬらしている。
「どうしたのだ?」
穏やかな声がする。
だが、美空の方を一顧だにしない。
暗い部屋の一方を注視したまま目を逸らさない。
「美星が」
美空は、自分の言葉に収まりの悪い違和感を憶える。「帰って」きてから父と交わした多くない対話で、その名を口にするのが初めてだったと思い当たる。
美空はうつむく。
うつむいて、自分は何をしているのだろうかと考える。
宗哉がいなくなってしまったと考える。
わたしはおいて行かれてしまったと考える。
考えがちっともまとまらない。
「美星は忌だったの」
自分の喋っている言葉が、まるで他人の台詞のように聞こえてくる。何の心もこもっていない。
頭の中に焼き付いた単語をとりあえず口にした、口にする以外にありませんという口調だった。
「そうか」
父の返答は同じように穏やかだった。
驚きでもない。叱責でもない。
その声に、美空は顔をあげる。
操り人形のようなぎこちなさで、壊れた玩具のように心を軋ませて、美空は目前のそれを見つめた。
父という生き物の形をしていた。
本当に生き物なのか自信がなかった。掛け軸に書かれた水墨画と話をしているような気さえする。
「あの子は忌だったのよ」
「そうか」
「あの子は、忌、だったのよ」
「ああ、聞いているとも」
最後の糸が切れかけていた。
心にかけたたくさんの鎖にはいる亀裂の音を、美空は耳元で確かに聞いた。
美空は、恐怖した。はじめて、本当に。
幸せだった頃の思い出やそこであった出来事のあらゆるものを閉じて蓋して沈めてしまった小さな筺に、幾重にも厳重にかけた鍵が壊れてしまう。
そんなものがあったら死んでしまう。
幸せなんて知らなければ不幸であることに気づかない。自分がどれだけ貧しいか知らない愚者は、永遠の幸せの中で死ぬことができる。
与えられた分だけ人は不幸になる。
知ってしまった分だけ哀しくなる。
「美星が、」
美空は叫ぶ。
嵐が吹いている。
堰き止めていたものがあふれかえる。
夜属になって、この男の娘ではなくなって、父ではなくなって、他の生き方など知らない。
それでもこの男は美星の父で、わたしは道具で、美星は娘で、生きていくために殺し、わたしの妹だったもので――
「お前の、娘が、忌、なのよっ! こたえなさいこたえろお前はあれの親だろ親のくせに親なのになんとかこたえろこたえろこたえろこたえろこたえろこたえろこたえろこたえろこたえてよっ!」
美空の叫びが消える。
閉じられた障子から漏れくる月の光が二人の間に差し込める。
しばしの無言の時。
「――答えて、いいのかね?」
美空の父親である男は、まるで掛け軸の中にいる人物のような表情だった。
美空は笑った。左の唇の端をちょっとひきつらせたような、笑みとも言えない笑みだった。
他には激情も何もかも、残っていたものを使い果たしてしまった。もう他にすることがなかった。
「わたしの言葉を望まなかったのは、美空、お前ではないか。わたしはだから、お前に従って、今までこうしてきたのだよ?」
「…………何を、言っているの?」
「お前は嘉上の血が産んだ夜属ではないかね。わたしの意見や所見など聞くことなどないのだよ」
美空は口をつむぐ。
咽がひりついて、何も口にすることができない。
「まぁ、いいだろう。ええと、何だったかね? ああ、美星か。そうか、あの娘もようやく窓を開いたのか。そうそう。そうでなくてはいけないなあ、うん」
掛け軸の表情が崩れる。急に表情を嬉々と崩し、浮かれるような声をもらす。美空は、もう、何も言わずに黙ってみている。
「嘉上の血を辱めてはらなぬ。そう、決して。あの娘も立派に嘉上の子だったのだなぁ。まったく喜ばしいことだ。そうは思わんか、美空」
「とう……さん……」
「あのときに殺さずにおいてよかった。うん、本当によかったなぁ。嘉上は血を伝えておる。それを絶やしてはならぬ。あの娘も立派に嘉上の子だったのだなぁ」
「とうさん……」
「うれしいねぇ……」
耳に突き刺さる音程の外れた笑い声。
悪い夢だろうかと、美空は思う。
「わたしはとてもうれしい。そうじゃないかね、みそら」
これは現実なのだと、理解した。
ここには幸せがあると思っていたのに。
自分以外には幸せな時間が流れていると思っていたのに。
それなのに――。
耳元で音がした。
鎖が腐臭を放って腐って落ちる。
美空は笑う。
三日月のように。
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