第2話 9月8日 ノロイ忌の爪

第2話 9月8日 ノロイ忌の爪


 殺すことに何も感じなくなった。


 僕は人ではない。

 僕は知る限りもっとも若い人狼で、もしかすると最後の人狼になるかもしれない。

 夜属と呼ばれるバケモノたちは、人が夜と夜の闇を追いやるのに足並みを揃えるようにして衰退を続けている。


 もう何年も新しい人狼は目覚めていない。

 目覚めるというのはつまり、夜属は人として生まれ、いつか夜属の自分に覚醒するからだ。

 目覚めた後は昼の光に別れを告げ、語られない夜の物語に生きることになる。


 暗がりから躍りかかってきた黒い影に、ためらいなく爪をふるった。

 不意打ちだった。

 思考は止まっていた。

 反射的に身体が動いていた。


 誘われたように路地裏へ入り込んだ僕の目の前に広がったのは、予測通りでありながら、まるで予想し得なかった光景だった。

 ほんの一瞬ではあるけれど石仏のように立ち尽くしてしまうのには十分すぎる。


 そこへ第二の不意打ちがやってきた。

 計算高く、冷静な相手――。

 ヤツは敵だ。

 夜属の敵、忌だ。


 夜属は忌を殺す。

 自分たちのテリトリーを守るために殺す。

 僕は夜属として目覚め、夜属としての自分に抵抗を覚えながら忌を殺す。


 殺す理由ならたくさんあるけれど、殺すという事実の前にはどれもこれも些細なことで、僕と他の夜属の間に明確な差なんてものは何もない。


 それでも人は順応する。

 どんな環境にもどんな事態にも時が過ぎれば慣れていく。

 僕もまた、気がつけば慣れていた。


 不意打ちになるはずの一撃だった。

 相手は不意打ちのつもりだったと思う。

 姿は見えず、黒い風圧と音がものすごい速さで頬をかすめていくのが耳元で聞こえた。


 一瞬早く避けていた。

 僕には聴こえる。

 ヤツの音が。

 空気の振動ではない現象音が。

 ヤツという現象の引き起こす旋律が、見えなくてもヤツの存在と動きを伝えてくれる。

 それが僕の能力だ。


 その音へめがけて僕の爪が走る。

 僕とヤツの爪が交差する。


 しん、と空気が静まった。

 それっきり続く攻撃はやってこない。


 呆気とられる僕に聴こえてくるのは遠くなっていく忌の旋律だけで、『それ』が逃げ去ってしまった事実を雄弁に物語っていた。


 頬に触れると指先にぬるりとした血が付いた。

 といっても、人狼にとってはほんのかすり傷程度だ。傷口はものの一分もしないうちに見分けがつかなくなるだろう。


 当面の敵がいなくなったのを確かめてから、改めて周囲を見回した。

 狭い路地らしい、かび臭く湿った空気には濃密な血と肉の匂いが混じっている。

 壁も床も、散弾のように飛び散った血と肉と骨格の破片で、シュールレアリスム絵画のように装飾されていた。

 たぶん、ほんの数分前までは人間だったもの。

 今は生物ですらない骸と呼ばれる残骸。






 ――…………る。






「……えっ?」


 唐突な、低くかすれた声の音源を探す。

 辺りには誰もいないし、誰の気配もない。

 ただ声だけが聞こえてきて、感覚を集中すると断片的な声は少しずつ確かな声に変わっていった。






 ――………やる。

 ――……てやる。

 ――…してやる。






 そして、僕は、その声を聴いた。






       ―――殺してやる。






「ぼくは狼を見た」


「とうの昔に滅んだ筈の、狼を見た」


「とうに滅んだ筈の狼と戯れる少女を見た」


「まるでつがいの獣のように

  夜の町を駆けていく」


「ある夏の夜……」


「ぼくは狼を見た」

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