第8話 9月22日 美星の日記

 まばゆさに目が覚める。窓から入り込む日差しは柔らかく、秋の気配を見せ始めている。

 少しだけ開けられていた窓から風が入り込み、白いカーテンが揺れている。少し肌寒い。


 隣にぬくもりがなかった。

 慌てて起き上がる。狭い部屋を見渡すと、フローリングに美空先輩がぺたりと座り込んでいた。


 ほっとする。

 先輩は着るものがなかったせいか、血塗れの白衣だけを身にまとっていた。夕べのことを思い出して気分が暗くなる。何も変わっていない現実を思い知らされた。


 ベッドから起き上がって先輩の隣に座った。先輩は朝の日差しの中、座り込んで何かを読んでいる。一心に、気を張り詰めて。まるでそれだけしか見えないというように。

 そっと覗き込んでみた。


 それは丁寧な文字で書かれた美星ちゃんの日記だった。

 そこには、美星ちゃんの精一杯の思いがつづられている。


 先輩は無言だった。

 ただ無言で読み進めていた。


 美星ちゃんの日記。

 几帳面な美星ちゃんの性格を映しているように、丁寧な文字で書き記された彼女の日記。

 ずっとずっとつづられているのは、美星ちゃんのお姉さんに対する素直な気持ちだった。一途で、純粋な美星ちゃんの想いだった。


 美星ちゃんは、最後まで美空先輩のことを思っていた。自分のことよりも、常にお姉さんのことを優先して考えていた。


 そんなことはわかっていたはずなのに、あらためてその事実を突きつけられて、僕は言葉を失った。

 どうして、彼女はこれほどまでにまっすぐで、無垢でいられたのだろう。


 僕は美星ちゃんの気持ちを思って泣いた。

 涙を止めることはできなかった。


 この状況に憤りを感じる。

 この無情に歯噛みする。

 自分の無力さに憤慨する。

 溢れてくる涙を拭うことができなかった。


 不意に先輩が立ち上がる。

 僕は顔を上げることもできずにいた。

 先輩の足音が窓際へと近づいていく。

 カーテンが風に揺れる音がしている。


「誰でもよかったのよ」


 先輩の声が僕の身体を通り過ぎていく。

 がらんどうの僕の中を通り過ぎていく。


「誰でもよかった。十年間も別れて暮らしてきた妹にどう接したらいいのかを教えてくれたら、わたしはその完璧な姉を演じられたと思う。美星の思い描く、理想の姉を演じられたと思う。

 そうしたら、こんなことにはならなかった!

 美星を失うことになんて絶対にならなかったのにっ!!」


 それは違うよ。

 きっと、そんなお姉さんを美星ちゃんは欲しかったわけじゃない。

 もっと普通の、ありのままの嘉上美空というお姉さんが欲しかったんだと思うよ。


 十年という月日は長いし、先輩は夜属だった。でも、そんなことはきっと関係なくて、ただ、本当にお姉さんが欲しかっただけなんだと思うよ。


 そう言いたかった。

 けれど。

 言えるわけもなくて。

 美星ちゃんを失ったことを、ただただ悲しんでいる先輩に、そんなことを賢しげに言う権利なんてあるはずはなくて。

 僕は無力にうなだれていた。


 先輩の無言の言葉が突然変化した。

 それは、重く、陰鬱に響き渡る。


     悲哀。

   嫌悪。

          後悔。

               そして、絶望。


 それらの音が不協和音を奏で、気分が悪くなる。調律されていない壊れた楽器のがなり立てるような不規則な音の奔流に僕は流される。

 耳を押さえるけれど聴こえてくる。


 僕は大声をあげてその音を遮ろうとした。

 けれど、音は直接僕の頭の中に伝わって、僕のがらんどうの身体に反響し、さらに雷鳴のような振動を加えていく。

 音に色があるとすれば、それは漆黒の闇のような色。夜の闇でもなお深く暗い、光すら届かないような――


「いけない!」


 不意に理解して叫ぶ。

 このままでは先輩が僕の手の届かないところへ行ってしまう――


「美空先輩――!!」


 頭を直接殴りつけるような音の波に意識を翻弄されながら、僕はそう叫ぶのが精一杯だった。


 ふと音が遠ざかる。


 先輩の姿はどこにもなかった。開け放たれた窓を見て、ようやく気がついた。

 ベランダに出て辺りを見回したけれど、どこにも先輩の姿はなかった。


 玄関から飛び出す。

 先輩を追わないといけない。

 音が伝えてきた先輩の状態。

 そんなはずはない。

 だって、先輩は朝まで普通に僕の隣で寝ていたのに。


 ――でも、あれは。


 僕は頭を振ってその最悪の予測を追い出す。

 どこへ行ったのだろう。

 見当もつかない。

 嘉上神社へ戻っているのだろうか?

 美星ちゃんの亡骸のあるあそこへ?

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