第15話 9月13日 キスの痕

「さよなら。お大事に」


「送っていただいて、ありがとうございました。お兄ちゃん、また」


 取り繕ったようなつつがない挨拶。

 意味ありげな視線を投げかける美星ちゃんから逃げるようにして、僕は嘉上家の玄関を辞する。


 雨が降っている。

 雨にはいい思い出がまるでない。


 強い水滴に傘をさそうとする前に、別の手の差し出した傘が雨を遮る。


「み……、そらせん、ぱい」


「送っていくわ」


「えっ、でも、雨も強いし……」


「いいの」


 我ながら呆れるほど狼狽の明らかな僕の背を押すようにして、美空先輩は歩き出していた。

 すっかり気まずい沈黙をお供に、僕らは帰路をたどって帰る。


「帰って来てたんですね」


「ええ。明日は〈会〉よ」


「はい」


 やくたいもない会話を何度もかわす。


 ――あそこにいたのではないか、と思った。

 ――知っているのではないか、と思った。

 ――見ていたのではないか、と思った。


 美星ちゃんのことで頭が飽和していてまともに聴いていなかったけれど、保健室の外に、美空先輩の旋律を耳にしたような気がする。


 確かめる勇気はなく、黙っている時間にも耐えられない。


 美空先輩がいない間のこと、存在しなかった殺人事件のこと、百道先輩のこと……。

 とりとめもなく続く僕の話を、美空先輩はただ黙って聞いていた。


「送ってくれて………ありがとうございました」


「百道主将……の行方は、きっとすぐにわかるわ。明日の〈会〉に備えて各地から夜属も集まってきているから、手を借りることもできると思うし」


「……はい」


 言葉が途切れると、沈黙がやってくる。

 部屋の前で僕らは、お互いにかける言葉を手探っているように、無言で立ちつくすばかりだ。


 秒針が三回りする間、そうしていた。


「……ちょっと……おじゃましても……いい?」


 少しうつむいたまま、美空先輩が呟く。


「明日の相談もあるから」


「……うん。少しちらかってますけど。お茶でもいれます」


 美空先輩の飲み物の趣味すら知らないことを思い出して、苦笑する。

 でも紅茶とかコーヒーとかを飲んでいる美空先輩というのは想像しがたい。なんとなくお茶が似合うと思うのはつまらない先入観かも知れないけれど。


 キッチンに立って、急須を探す。


 ことりと小さな足音がして、背中から細い腕が絡んだ。

 両腕で、抱きしめるように僕を迎え入れた美空先輩の二つのふくらみが、服越しの背中で押し潰されて、夢のような柔らかさを伝えてくる。

 金縛りのように動けなくなった僕の耳元を、熱い息がくすぐった。


「……美……空先輩」


「そうや、くん……」


 身体をひねって、腕をふりほどかないようにゆっくり振り向くと、美空先輩の震える睫と伏し目がちな眼差しは間近にあった。


 少し雨に濡れたせいで熱を奪っていく制服にも負けず、僕らの触れあった部分はお互いの体温と鼓動を伝えてくる。


「……する……の?」


「……………うん」


 こんなふうに彼女から求めてくるのは初めてだ。

 普段の美空先輩は、僕に応える時はいつだって恥ずかしそうに、どこかこわごわと、それでも一生懸命に受け入れてくれる。


 今は、違っていた。

 色も形もない何かに怯え、掌からこぼれていく砂を必死に押しとどめようとするみたいに、僕にしがみついてくる彼女と彼女の瞳。

 ぽつぽつと窓に響く外の雨音と二人の息の音が混じり合い、ひたひたと押し寄せる。


 呼吸もできないほど、息苦しい。

 世界の中に僕ら二人しかいないような、そんな、静寂のような時間が流れていた。


 やっぱり保健室でのこと、見てたんだろうか。

 そんな思いも、ひたむきな瞳と上着を掴んだ指先にこもった力に、もう口にすることができない。


「…………美空先輩」


 長く艶かな髪を指先でそっと梳いて、黒い簾の下から現れた形のいい耳元に唇を這わす。


「…………んっ……」


 押し殺したような小さな声。

 いつだってこんなふうに、美空先輩は歯を食いしばってもれる声を殺そうとする。


 身体の芯から滲むような感覚が恥ずかしいのか、その感覚に溺れるように溢れてくる声そのものが恥ずかしいのか。

 でも、僕はそんな声をもっと聞きたくて、必死に堪える美空先輩が震えながら漏らす声が愛らしくて、つい彼女のことを苛めたくなってしまう。


 白い耳をくすぐるように舌でたどっていく。

 そこは薄い汗と秋の雨の味がした。

 耳の縁をなぞり、尖らせた舌先で中をまさぐる。唇ではんだ耳たぶに息を吹きかけてから優しく歯を立てると、びくんと美空先輩の肩が跳ねた。


「……美空先輩……ここ、弱いね……」


「……う、……ん……」


 二人の髪からも服からも、雨の匂いが立ち上る。


 舌を耳から顎へ、顎から頬へ、ナメクジのようにたどっていく。

 マシュマロのような頬の感触に刺激され、また軽く歯を立てた。


「…………あ……」


 吐息に薄く開いた美空先輩の唇が、まさぐるように僕の唇を求めてきた。


 まぶたを閉じた二人の唇が重なった瞬間、まるでねじ込むような勢いで、美空先輩の舌は僕の歯の隙間に差し込まれてくる。


「………んっ」


「……ふぁっ」


 まだ経験が浅くて不慣れな動きだったけれど、美空先輩は一心不乱に舌を使う。

 別の生き物のようなぬるりとした感触が、僕を圧倒しながら口腔の中を舐め回していく。


「……そう、や……くぅ、ん……」


 鼻にかかった声に、僕も舌で応える。

 美空先輩の口内に忍び入り、歯列を確かめるようにかき回す舌が、息をすることもままならない激しさで吸い上げられた。


「…………ぅんっ」


 鋭い痛みが走る。

 美空先輩が、僕の唇に強く歯をたてていた。

 差し入れ、押し返し、絡み合う二枚の舌と唾液に鉄錆のような味が混じる。僕の血と、二人の舌と唾液が、溶け合いながらぴちゃぴちゃと音をたてる。

 一つになる、という言葉を思い出す。

 僕らの舌はこんなにも滅茶苦茶に溶け合っているのに、それでも、二つは永遠に一つにならない別のものなのだと強く意識してしまう。


 これまで考えたこともない思考の断片。

 口に溢れた唾液を、美空先輩の喉が動いて飲み込む。こくり、こくりと。飲み込むしりから流し込まれてくる唾液を際限なく嚥下する。


 いつもとは違う、焼けつくような焦燥が溶け込んでいるような、そんなキス――。

「……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

 離れた唇と舌を結びつける涎の筋。

 唇を汚すお互いの唾液。

 熱に溶かされたように、どこか恍惚とした表情を美空先輩がする。


「……そうや、くぅん……」

「……今日の、美空先輩……何か……すごく……」

「いいの……」

 ぞくり、とする感覚が股間から背筋へ走った。


 僕のうなじに、美空先輩がちろちろと舌を這わせていく。

 鎖骨のくぼみをまわすように舌先が嬲った。

 白い指先が、たどたどしくワイシャツのボタンを外していく。

「いいから……今日は、いっぱい…して……宗哉くんの好きなように……して欲しい」


 乱暴に自分の制服からボタン付きのリボンを取ると、チャックを外して、そんなことをするのさえもどかしいといいたげに上着を脱ぎ捨てた。

 ストライプの下着と肌が露わになる。

 蛍光灯に照らされた明るい部屋で、晒された白い肌からのぼる、雨の匂いではない美空先輩の自身の匂いに、僕の頭はくらくらと酩酊する。


「んぅあっ」

 強く腰を抱き寄せると、甘い声で応えた。

 掌全体で、湿った布きれごしにお尻をこね回し、引き締まった弾力を確かめる。それから、スカートのジッパーとホックを探った。


「……は……」

 きゅっと、美空先輩の身体が一瞬堅くなる。

 経験のほとんどない美空先輩にとって、肌を重ねるという行為には、どうしても羞恥がまず先に立ってしまうようだった。

 それでも彼女は応えようとしてくる。

 なにより、もう僕の方が止まらなかった。


 スカートが落ちる。

 ニーソックスとショーツだけに隠された、しなやかな脚線が外気に触れた。

 フロントホックを折ってブラを外すと、たわわなふくらみが恥ずかしげに揺れる。

 重力に逆らってつんと上を向く張りのある双丘。その先端では、まだ綺麗な桜色をしている乳首が待ちこがれるように堅くしこっていた。


「……宗哉……くぅん……」

 頬を真っ赤に上気させたまま、美空先輩は蛍光灯の下で裸の胸を隠そうともせず、僕のワイシャツを脱がし、ベルトの金具を外す。


「み……美空先輩っ」

 何か凶暴な気持ちになって、彼女の身体を折れるほど強く抱きしめると、滅茶苦茶してしまうようなキスをする。

 唇をねじり、舌を押し入れ、唾液を流し込む。

 すぐに応えてくる。

 舌で、唇で、指先で、僕らはもつれ合いながらベッドに倒れ込んだ。

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