第2話 7月15日 青い空
空がとても遠い。
昔はよくこうやって屋上に寝ころんで空を眺めていた。
青く透き通るような空は、見ていて飽きることはない。その色は、僕の胸を少し刺す。
「そういえば……」
ポケットに手をやると、ごわごわとした紙切れの感触。
引っ張り出して眺める。
黛から押しつけられた、三枚のプールの入場券。
「どうしろっていうんだ、これ……」
一人で三回もプールに行くのはとても空しい。できることならそれは避けたかった。
チケットを透かすと青い空。それは一つの思い出を刺激した。
そうだな……美空先輩を誘ってみるか。もう一枚あるから、美星ちゃんも一緒に……。
チケットをポケットにしまったときに、ガコン、と音がして屋上の扉が開いた。
煙草が切れたからと買いに行っていた江草和泉が戻ってきたのだ。しかし、制服のままで買いにいくか、普通。
大の字になって寝ころんでいる僕に一瞥を投げただけで、和泉はフェンス近くまで行って、買ってきた煙草に火を点けた。
青い空へと煙が細く細く昇っていく。
「空は好きか?」
僕の方に視線を向けるでもなく。和泉は空を見上げて唐突に口を開いた。
「……たぶん」
空の色は僕に一つのことを思い出させる。
それは痛くて。
忘れようと思ったこともあったけれど。
でも、忘れられなくて。
時間というものは確かに偉大で、心の傷はずっと小さなものにはなっている。
だけど。
僕は、それを忘れられない。
「和泉は?」
「……多分」
微妙な沈黙が場に落ちる。しばらく、二人とも空を見上げていた。
人はそれを見るたびに心を高鳴らせ、自由を投影し、あこがれを抱き続けてきた。
それだけは、変わらないものなのかもしれない。
「なあ、和泉」
ふと、思ったことを口にする。
「空は、なんで青いんだと思う?」
和泉は煙を吐き出すと、哀れむような目で僕を見た。
「空に咲くのはいつもあお」
「なんだい、それ」
和泉は肩をすくめた。
「叔父さんの詩。なぜ、なんて思うこともない。青いから青い。それで十分だとは思う」
過
ぎ
去
り
し
日
夏
なんて変な人だろう。
最初の印象はそうだった。
一面に広がる青い空――それを遮ったのは、一つの影だった。
「――さやまくん」
「………………先輩」
「またこんなところで寝てる。不良みたいだね、キミ。ぜんぜん似合わない。まだ授業中なんだから、さぼっちゃ駄目でしょ」
「…………先輩こそ授業中でしょ。受験生がサボってたら問題あるんじゃないですか」
婉曲遠まわしに「放っておいて欲しい」と申し出たつもりだったけれど、彼女は気にしたふうもなくにこやかに微笑んでいた。
「歴史の芳川先生、椎間板ヘルニアで入院なんだって。今日は自習なの。すごいでしょ」
何がすごいのかまったくわからない。
上履きの色で彼女が三年生だというのはすぐにわかった。そうでなくたって、彼女のことくらいは知っている。彼女は三年生では――正確には全校だ――目立つ方だ。
しっとりとした、どちらかというと古風な顔立ちで、どこから見てもまず――ちょっと吹き出しそうになる表現だけど、美少女の範疇に入る。
面倒見がよく、男子にも女子にも分け隔てなく人気があった。もっとも、その面倒見のよさもこんな時には鬱陶しく感じてしまうけれど。
母さんが僕を助手席に乗せたまま事故で死んだのは、まだほんの半月ほど前のことだ。
立ち直るとか、心の傷とかをうんぬんする前に、死んだ直後は自分の入院や葬式、保険なんかの忙しさにかまけてまったく湧かなかった喪失感が、ようやく去来しはじめたところだった。
ぽっかりと胸に穴の空いた感覚っていう、擦り切れるくらい使い古されたフレーズ。それがちょうどぴったりくる気分で、毎日何をすることもできずに漠然と時が過ぎるのを待っている。
そんな、親戚も友達もクラスメイトも、僕の世界全部が、僕に腫れ物でも触るみたいな
「もう、いつまでも屋上なんかで寝てないでっ」
袖を掴んでひっぱる彼女に逆らう気力も起きず、身体を起こしてため息をついた。
「もう、ため息ばっかり。ほら、見て。空はこんなに青いんだから」
羽みたいに両手を広げる。
まるで夏の、この鮮やかすぎる空を全部抱きしめて独り占めしたいとでもいうみたいに、いっぱいに腕を広げてくるくるとまわる。
まわるたびに制服のスカートの裾がふわり翻り、紺色の円錐を形作る。
そんな仕草が今は妙にまぶしくて、僕はよけい皮肉めいた口を利く。
「空が青いのは光線とスペクトルの加減で……」
「はぁ――」
どうでもいい台詞を全部言い終わる前に、芝居がかった大げさなため息に遮られてしまった。
「そんな夢のない話なんて聞きたくないわ。空が青いのは青いからなのよ」
悪戯をした子供を叱るみたいに。
注意する大人に言い訳する子供みたいに。
彼女は頬を軽く膨らませて、そっぽを向いた。
その時になってようやく僕は、彼女の表情が遠目から想像していた時よりも、ずっとコロコロとよく変わるのだということに気がついた。
屈託のない彼女を見ていると、何をするでもなく空虚な気分で一人俯いている自分が、まるで……馬鹿みたいだなんて思った。
「…………先輩って」
「なぁに」
「思ったより子供っぽいんですね」
途端。
おどかされた猫みたいに、彼女は両手で口元を隠してぴょんと飛びのいた。頬は真っ赤に染まって何故か涙まで浮かべている。
僕のほうがあっけに取られて、空いた口が塞がらなかったくらい、それは予想外の反応だった。
「―――っ」
怒ったような、悔しがっているような。
そんな彼女の涙目に、なんだかとても不条理な罪悪感を憶えながら……
この人、かわいい人なんだ――
根拠もなくそう思った。
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