第11話 7月1日 目覚めの夜2
ここはどこだろう。
最初に考えたことがそれだ。
まだ意識がはっきりしない。頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたみたいだった。
薄く目を開くと、木目のある見慣れない天井が見えた。どうやら自分の部屋ではないらしい。
「気がついたかね」
声のした方に目を向ける。
落ち着いた感じの男の人が枕元に座っていた。少しだけ驚いたような表情をしているように思った。
「その分なら大丈夫だろう。安心して、ゆっくり眠りなさい」
やわらかな笑みに安心して、僕はまた目蓋を閉じる。
目を瞑っただけなのに、意識が遠くなっていくのがわかる。暗くたゆたう夜の海の底へ向かって僕の意識が沈んでいく。ぱらぱらとほどけていって世界に自分というものが溶けていくような感覚が続いていた。
みーん、みんみんみんみんみぃー
みーん、みんみんみんみんみぃー
みーん、みんみんみんみんみぃー
うるさいまでのセミの声が降り注ぐように、僕たちを包み込んでいる。
生い茂る木々の間から零れ落ちる強い日差しに閉口して、僕は手をかざす。
黒い影がうすぼんやりと見える。
何かを言っているようだけど、はっきりと聞こえない。
手が差し出された。
みーん、みんみんみんみんみぃー
みーん、みんみんみんみんみぃー
みーん、みんみんみんみんみぃー
セミの声がうるさい。
後ろで僕の服の裾をひっぱている娘がいる。そっと握るぐらいの力だから、ちょっとしたことで離れてしまうだろう。
でも、その手を振り解くことはできなかった。
僕はこの娘の泣き顔を見たくなかったから。笑顔のほうがずっと素敵だったから。だから、泣かせたくなかった。
「まよわないように――」
もう一度、手が差し出された。
僕は、後ろで僕の服の裾を引っぱっている娘を気にしながら、その手を――
ぱちりとまるでスイッチが入ったかのように目が覚めた。
知らない蒲団。知らない天井。知らない壁。それが目に入るすべて。僕はまったく知らないところで眠っていたらしい。記憶が混乱して、どうしてここにいるのかすらわからなかった。
部屋の中はほのかに明るい。窓から月の光が差し込んでいるからだろう。部屋中が青白く照らし出されていた。
徐々に記憶が戻ってくる。まるでほどけるように記憶が鮮明になる。
美星ちゃん――そうだ、美星ちゃんは大丈夫だろうか。
いやその前に、僕は大丈夫なんだろうか。
たしか僕は化け物が死ぬのを見て、それから僕自身も化け物を殺したモノに殺されて……どうしてここにいられるんだろう。
あのとき、僕は確かに死んだと思った。頭の中に突き入れられた細くて鋭い爪が脳髄をかき回した感覚まで覚えている。
末端がひんやりとしていくような感覚。じわじわと端の方から寝食されていく恐怖。
死んだはずの僕はなぜこうしていられるのか。
自分の存在を確かめるように両手で肩を抱きしめる。力強い鼓動を刻む心臓。呼吸は浅く早いけれど肺に空気を送っている。それらは生命の証。確かに僕はここに在る。
では、あの記憶はなんだ?
死んだと思った僕の感覚は間違いだったのか?
なぜだろう。考えがまとまらない。
身体が熱い。
熱い――あつい――アツイ。
暗い世界。
昂奮。
動悸が収まらない。
ビートを刻むように心臓が鼓動を続ける。
どこからともなく熱い塊が競りあがってきて、僕に暴れろとそそのかす。
おかしい。
世界が違う。
笑い出す。
奇妙だ。
すべてが愉しい。
抑えることができない。
愉快だった。
あらゆるものが止まったように見えた。
窓を開ける。
青白い月の光が照らし出す夜の世界。
そこには歓喜が満ち溢れている。
外へ飛び出す。
それは文字通り跳躍だった。
高く高く舞い上がる。
身体の奥から力が沸いてくる。
溢れんばかりの力。
圧倒的な力。
絶対的な速度。
それに酔う。
月明かりのもと、大声を上げて笑った。
屋根から屋根へと飛び移る。
なんでもできるような気がした。
この圧倒的な力さえあれば、なんだってできると確信した。
かすかな息遣いを聞き取る。
まるで後をつけるかのようだった。いや、ようではなく、つけている。
面白い。
最初の獲物はこいつにするか。
女だった。
己はにやりと笑う。狩りだけではない。そのあとのお楽しみまで期待できるらしい。
好都合だった。
ぶちのめし、引き倒し、泣き叫ぶところを愉しんだあとに、このドロドロと熱くたぎったものをぶちまけてやることにしよう。
思い切り地面を蹴ると、抉り取られた土が噴水のように舞い上がる。それを後に残して一気に獲物に迫る。
圧倒的なスピード。絶対的なパワー。すべてがスローモーションのように己に従う。愉快だった。まさしく夜の世界の征服者に相応しい力!
右腕を振りかぶり、振りお……ろすことができなかった。
女が迫る。
あまりの衝撃に、一瞬、意識が飛んだ。吐瀉物をぶちまけながら転げまわる。
ようやく息を整えて顔を上げると女は冷たい顔で笑っていた。
この己を――夜の支配者であり、狩猟者たる己をバカにしている笑いだった。
ムカムカと腹が立つ。
飛び上がる。女も追うようにして飛んだ。
かかったな!
この地上において跳躍力で己に勝てるはずがない……のに、女は己よりも遥か高い場所にまで舞い上がっていた。
蹴り落とされたと認識するよりも先に、アスファルトに大きな穴が開いた。息が詰まって身動きが取れない。
女はそんな己をあざ笑うかのように見下ろしている。そして無感動な表情のまま、己の右腕を踏み抜いた。
悲鳴を上げる。
ばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかなばかな!
己は夜の住人であり、無敵だぞっ。
圧倒的な力を持ち、絶対的な速度を誇っているんだぞ!
それがなぜ、こんな女に遅れをとらなければならんのだっ!
「無様ね」
月を背負った女は冷たく告げる。
「それなのに、もう右手は治癒を始めているでしょう。それが人狼の能力よ。忘れないことね」
女の言う通り、砕かれたはずの己の右腕はもう動かせるようになっていた。
「でも――人狼の爪に傷つけられたらなかなか治らない」
左腕の肉をごっそりと削られた。
女の右手が銀色のこわい毛に覆われている。
「立ちなさい。あなたに人狼の戦い方というものを教えてあげるわ」
女は冷たく笑っている。
余裕の笑み。
それは強者のみに許された笑いだった。
ふざけるなっ!
己は右足を振り上げて女を狙う。一瞬早く、女は飛び上がっていた。
己は全身の力を込めて跳躍する。今度はこちらが上を取る番だ。
女は長い髪を巻きつけるように回転をする。そのまま長い脚がカウンター気味に己の顎を捕らえる。
同時に意識も奪われていた。
冷水に叩き込まれたおかげで目が覚めた。
ばしゃばしゃと水をかきながら、なんとか岸までたどり着く。荒い呼吸を繰り返して息を整える。本当に死ぬかと思った。
影が重なる。視線を向けると地面には真新しい革靴が並んでいた。そこからほっそりとした脚のラインが続いている。
顔をあげる。
そこには冷たい笑みを浮かべた女の人がいた。
どこかで見たことのある顔だった。
そっと手が差し出される。
どうしたらいいのかわからず、差し出されたその手と微笑んでいる女の人の顔を見比べた。
「いつまでも濡れたままだと風邪を引くわよ」
わずかな逡巡の後、僕は素直にその手を掴むことにした。
さらさらとした川の流れ。月の明かりが川面に反射をして、キラキラと輝いていた。
手を差し伸べてくれた女の人は、嘉上美空と名乗った。嘉上なんて珍しい苗字がそうそうあるわけではないから、この人が美星ちゃんのお姉さんなんだろう。なるほど、そう思えばたしかに似ているような気がする。
白磁のようなキメ細やかな肌、黒曜石を砕いて集めたような艶やかな黒髪。
穏やかな性格の美星ちゃんとは違って眼差しは鋭く、何者をも近づけさせないような厳しさが漂っているけれど、姉妹だとわかる。
そういうのが血のつながりというのだろうか。
そして、なんのことはない。昨日、僕が嘉上神社の階段の上で出会った人だった。
昨日着ていたのは前の学校の制服だったそうだ。あれはあれでよく似合っていたように思う。
僕は黙って先輩の話に耳を傾けている。
正直なところ、わかる部分のほうが少ない。
世界には化け物と呼ぶしかないような生き物がいて、先輩がその化け物の一員で、おまけに僕までそうした化け物の仲間入りをした。
難しい説明を省いて結論だけを述べればそういうことだ。
「それらは
それはまるで御伽噺のようで現実味が感じられなかった。よっぽど、海外で起きている紛争のほうがリアリティがある。
こうして美空先輩の説明を受けていても、どこか地球以外の別世界のことをのぞき見ている感覚が離れない。
当たり前だろう。そんな化け物がこの世界に存在しいているなんて僕は聞いたことがない。
「この世界にはもう一つの夜が在る。人々は知らないだけ。でも、確実に存在している。わたしたちが生きる世界がある。窓を開いた者だけが見ることのできる夜の世界。あなたはその窓を開いた」
「……夢じゃないんですか」
化け物なんて見たことがないけど、さっきまでの自分の姿がその化け物だということも事実らしかった。あの内側から無限に溢れ出してくるかと思うほどのパワーは、今も僕の深いところにあるのがわかる。それがわかるだけに、誰かに否定してもらいたかった。
「現実よ。あなたは夜の国へ踏み込んだ。そうなってしまったら、絶対に後へ引くことはできない」
きっぱりとした美空先輩の口調に、僕はいたたまれない気持ちになる。心の底から望んでいた救いの言葉である否定は得られなかった。
それはすなわち、僕が本物の化け物になってしまったということになる。
そんなこと、僕は決して望んではいない。
僕がこれまで信じてきていた世界というものはしょせんは閉じられた筐であり、その存在を知らずに暮らしている限り、筐の存在は認識されない。
普通はそれでいい。幸せな生涯を送ることができる。人生には、知らなければいいことは多いのだから。
当然ではあるけれど、筐が認識されなければその周囲を覆っている壁も認識はされない。
世界というものを自分たちで規定し、停止させ、殺してしまっているということだ。
その世界の、なんと狭く、小さく、限られたことだろうか。
けれど閉じられているからこそ、安定した世界でもある。
「じゃあ、昨日の晩の学校で僕が見たことも本当にあったんですか?」
もう随分と遠いことのように感じているけど、あれはつい昨日のことに過ぎない。
「ええ。偶然ではあるけれど、あなたはそれを見ているわ」
「……一体、何をしてたんですか」
「ついていらっしゃい。何もかも、あなたに教えてあげるから」
s20閉じた筐の風景【美空】
第11話 7月1日 初めての狩り
第12話 7月2日 屋上にて空を思う
s20閉じた筐の風景【美星】――終了
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シナリオ/ 卯月桜
是森戦十郎
シナリオ補佐/ VOID
嘉上美星[かがみ・みほし]
美空の妹。宗哉のことを「お兄ちゃん」と慕っている。
母親を早くに亡くし、姉もいなかったために家事一般を担ってきた偉い子。そのせいか、とても我慢強い。けなげでひたむき。よく表情の変わる、こぼれるような大きな瞳が印象的な年下の女の子。ちなみに、よく泣くのは感受性が豊かなせいか。
なお、身長は139センチと、高校生としてはかなり小さい。
雨宮奈津美[あめみや・なつみ]
美星の同級生にして数少ない親友。社交的で元気印の性格で、美星とは正反対。宗哉に密かに(?)思いを寄せる。
赤点[あかてん]
加賀瀬高校の場合、平均点の半分以下の点数をいう。赤点を取った者は補習授業への出席が義務付けられている。
メロンパン[めろんぱん]
日本で作られたパンの一つ。正式ないわれは不明だが、表面の感じがメロンに似ているからという説が有力らしい。
加賀瀬高校では売店で売れ残るパンの代表格。他にラーメンパンなどという謎のパンも売れ残っていることが多い。
綾乃先生のお昼の定番メニューでもある。
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