第9話 8月29日 只今アルバイト中

 音が聴こえる。

 これは実際に耳で聴いている音ではない。

 そうではないのだけれど、それが音だとわかる。


 なんだかとても不思議な感覚だ。

 僕には音が聴こえる。

 正確には歌というべきかもしれない。


 世界のあらゆる事象――音によって表現できる、およそすべてのこと――を聴くことができる。


 それが僕、狭山宗哉の能力。

 天耳通てんじつうという能力だ。


 能力というものは、磨くことによって更にその力を増すという。

 まあ、わからなくはない。努力することによってより高いハードルを越えると考えればいい。スポーツ選手とかを見ればなんとなくだけどわかる。


 ただ、僕に備わったこの能力というヤツは、一体どうやったら磨くことができるのかというのはわからない。

 黙々とダンベルを上げ下げしたり、朝夕にランニングをしたり、何百回も素振りをすれば向上するというわけではないだろう。

 おまけに、他に同じ能力を持った人がいないのだから、質問することだってできやしない。


 幸いといってもいいものか、この能力は放っておいてもある程度は向上してくれるものらしい。

 というのも、目覚めてから少しずつではあるけれど、わかることが増えているからだ。


 でも、だからといって、便利使いできるわけでもない。

 たとえば、今度の試験の問題を知りたいと思ったところで、知ることはできない。問題用紙は紙に印刷されたもので、それ自体は音を発することはないのだから。

 世の中、なかなか思うようにはいかないなどと、ちょっぴり悟ってみたりする。


 いま聴こえている音はなんなのだろう。


 かすかに水の流れる音。

 水道の水……というわけではなさそうだ。もっと広い場所。たとえばプールとか川とか湖とか。流れているから湖は違うか。だとすると海? このあたりに海はないから、もしかしたら幼い頃のことを聴いているのだろうか。それとも、あり得るであろう未来の音なのか。


 推理モノのように、わずかに与えられる断片的な情報から判断をしなければいけないというのはひどくもどかしい。

 今からこうして推理力を鍛えて、将来は私立探偵にでもなれってことなんだろうか。まぁ、そういうのにあこがれる気持ちがまったくないといったら嘘になるんだろうけど。


 人の声はしないけど、とても切羽詰まったような息苦しさを感じる。

 緊迫感とでもいうんだろうか。

 こうなんというか、抜き身の日本刀でも突きつけられているような感じ。

 もっとも、そんな経験は一度としてないからそれが正しいかどうかなんてわからないんだけど。それにこれからだってそんな経験は味わいたくはない。

 ただ、背中に嫌な汗が伝い落ちるようないい知れない緊張感で一杯だ。


「おい、宗哉。こら。昼間っからぼーとするやつがあるか!」


 ぱかんとでっかい手で頭をはたかれた。


「いたた……」


 頭をさする。目から火花が出たみたいにチカチカして焦点が定まらない。


「なーにがいたただ。仕事中にぼーとしおって。近頃、たるんどるんじゃないのか、お前」


 ひげ面をした厳つい顔が僕の目の前にある。最悪の目覚めだ。

 目をパチパチして状況を確認する。

 目に入ってくるのは見慣れた光景。綺麗に磨かれたグラスやカップが並ぶ厨房に、伯父さんが立っていた。


 どうやら、またらしい。ちょうど最後のお客さんの洗い物をしているところだった。手にしたお皿を落として割っていたら、頭をはたかれるだけではすまなかっただろう。危ないところだった。


「ったく。ちっとは目は覚めたか?」


 伯父さんは鬼の首でも取ったみたいに胸を張っていた。いや、この伯父さんなら本当に鬼の首を取ってきそうで怖いけど。


「ほれ、終わったのならとっとと帰れ。いつまでもいられたら邪魔だ、邪魔」


 それが身内とはいえアルバイトに対する言葉だろうかと思わずにはいられない。


 まったく、頭は叩かれるし、酷い職場だ。どこぞのサービスに上司に恵まれないと電話をいれるべきかと本気で悩む。


「はいはい。わかりましたよ」


 けどまぁ、喫茶店のアルバイトにしては多めにお金はくれるのだし、これぐらいは我慢すべきなのかも知れない。なにより、今のは僕の方が悪かったのだし。


「返事は一回だ、バカたれ」


 ぱかんともう一度頭をはたかれた。


 いつか伯父さんよりも美味しいコーヒーを淹れてぎゃふんと言わせてやると思いつつ裏口からバイト先を後にする。今時、ぎゃふんもないものだけど。


 今日のバイトはお昼時の忙しい時間帯のみだったので、あがりの時間は早い。夕食までにはまだ時間があるし、商店街にでも足をのばして時間を潰すことにしよう。


 通りへ出ると、大柄な人がこちらへ向かって歩いてくるところだった。顔見知りだ。


「こんにちわ。今日も杣木さんのお迎えですか」


「ああ。お前もバイトは終わったんだな。お疲れさん」


 関川稔さんは顔に似合わず人のいい笑顔を浮かべていた。


 関川さんとは、ちょっとした事件が縁で知り合った。ほんのわずかな時間でしかなかったけど、僕には忘れることのできない出来事だ。

 そしてそれは、関川さんと杣木さんにもいえることなんだろう。

 あれから――まだ一週間も経ってないんだけど――関川さんと杣木さんはちゃんと生活をしている。ただ、いくつか変わったところはあるみたいだ。


 たとえば、時間が許す限り、関川さんが杣木さんを送り迎えをするようになった。

 杣木さんはまだまだ危なっかしいけど、積極的に接客をするようになった。

 関川さんは二学期からちゃんと学校に行くって話をしてくれた。


 多分、二人だけではない。その周りにいた人たちにもあの事件は影響を与えているんだろう。

 それでも、前向きに生きている二人は立派だと思う。それに強いとも思う。


 大通りに出ようかというところで、ガードレールに腰掛けている女性を見かけた。

 なぜだか最近、嫌な予感というヤツの的中率が滅法高い。

 正直な話、嬉しい傾向ではない。その予感があたれば、次の展開はほとんどの場合、僕が望まないようなことになるのだから。


 だから、ガードレールから腰を上げて、僕の前に立つこの女性を見た時、心の中で盛大なため息をついてしまった。

 いったい、今度はどんな目に遭わされるハメになるのだろうと。


「いい若い者が路上でため息とはいただけないね」


 安土月子と名乗った女性はそうのたまった。

 どうやら、心の中だけではなく、本当にため息をついていたらしい。心の中のつぶやきまで口にしてしまわないよう、注意することにしよう。


 僕は改めて女性を見た。

 ぱっと見た感じの印象を言えば、かっこいい女性だった。

 身長はつぐみほどではないけど、先輩よりも少し高いぐらいだろうか。必然的に、僕は相手を見上げる格好になるからあまり面白くはないんだけど。


 黒いシャツは首の辺りのデザインがとてもおしゃれだった。すらりとした体のラインに沿ってぴったりとしている。

 薄手のパンツにデザイン重視のスニーカーという組み合わせは、全体的に見ていいバランスだ。活動的というのがよくわかる。

 もう少し背があれば、モデルといっても十分に通用しそうな人だった。


 いつまでもじろじろと観察しているのも悪い気がして、とりあえず聞いてみる。


「あの、僕に何か用でしょうか?」


「用があるから、わざわざ来たんだけど」


 ちょっと呆れたような顔をされてしまった。

 だって、他に何を言えと。

「よいお天気ですね」とでも言った方がよかったんだろうか。


「立ち話というのもなんだし、ちょっと付き合いなさいな。少しぐらい、時間はあるでしょ?」


「いや、それほど暇っていうわけでもないんですけど」


 夕食までは本屋で立ち読みをしたり、新譜のCDを見て回るという大切な予定が待っているし。


「美人のお姉さんのお誘いを断るなんてことはしないよね?」


 などと言いつつ、怖い笑みを浮かべている。これはあまり逆らわない方がいいかもしれない。いろいろと、危険が危なそうな感じがする。


「…………はぁ」


 ため息が漏れるのは止められなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る