s86乎子様の一日

第1話 7月18日 屋敷編1[他者視点]

「藍玉さん。お茶を入れてもらえますかねえ」


 新聞に目を通しながら、あたくしは部屋から出ていこうとしていた女中――藍玉という、幼い頃から額辺家に仕えている少女――に声をかけました。


「かしこまりました」


 藍玉さんがそっと頭を下げると、髪に結わえられた青いリボンが揺れました。

 あたくしはその様子を目の端で確認してから、再び新聞に目を落としました。


「最近は何かと物騒ですねえ」


 思わず漏れるため息。


 紙面には、

『槻那見町で行方不明者相次ぐ』

 なる見出しが踊っています。

 おそらくは、忌の仕業なのでしょう。もちろん、きちんとした裏付けをしなければ確実なことは言えないのですが。


 仮に、この事件に忌が絡んでいるとするならば、人の手には余るということになります。あたくしたちの存在を一般人に知られないためにも、近いうちに狩り出さなければならないでしょう。


「このあたりで使い手というと……やはり嘉上のにお願いするのが一番でしょうかねえ」


 あたくしは、先日、少年を伴って屋敷を訪れた黒髪の少女を思い浮かべました。


 研ぎ澄まされた抜き身の日本刀のような印象を与える少女。

 彼女は戦事を得手とする人狼のなかでも飛び抜けて腕が立つのです。あの年齢で〈銀〉の七世を継いだのは伊達ではありません。

 彼女であれば、つつがなく処理をしてくれることでしょう。それに、あの少年にとってもよい経験となるかもしれませんし。


 スポーツ面を見ると、関西の球団のことが大きく扱われていました。どうやら今年もまた、春の珍事に終わるようです。開幕当初の勢いは今いずことファンならずとも思うことでしょう。


 占いコーナーを見てみます。

『失せものあり。ただし、じきに戻る』

 運気はあまりよいものではないようです。


 一通り新聞を読み終えたので、今度は挟まっていた色とりどりの広告を見ることにしました。

 近所のスーパーの特売では、日用品が安いようですね。トイレットペーパーが298円。ティッシュペーパー五箱入りで398円。なんと卵がふたパックで198円とは格安ですね。おまけに、百円均一コーナーも新しく併設されたということです。

 最近は百円といっても侮ることはできません。有田焼の食器なども並んでいるのですから驚きです。機会があったら覗きに行くことにしてみましょう。


 隣町にある遊園地の改装が終了して、しばらくはキャンペーンをしているというチラシもございました。なんでも、木製のジェットコースターが新しい目玉なんだとか。

 割引券も広告についていて、これを持っていけば入場料から200円引いてくれるとのこと。たまには甲羅干しをするのもいいかもしれません。芋洗いにならないうちに、一度行ってみることにしましょうかねえ。


「失礼致します」


 随分と待たされましたが、ようやくお茶が来たようです。ふと時計を見ると、あれから三十分以上経っていました。……藍玉さんにしては時間がかかりすぎのようです。


 そっと廊下に面した障子が開けられました。藍玉さんは頭を下げると、敷居をまたいで部屋に入り両膝をついて、再び両手で障子を閉めます。

 さすがは我が屋敷で一番、礼儀作法にうるさい藍玉さん。その立ち居振舞いは完璧です。


「お茶をお持ちいたしました」


 すっとあたくしの前に差し出される茶碗。

 黒の鉄釉と沓型が特徴的な織部焼にしては比較的歪みが少ないもの。釉薬を三角形に白抜きし、蔓草があしらわれています。


 これはたしか、曾祖父が大切にしていた黒織部茶碗の逸品だったはずです。百万はくだらないと聞いていますが……。

 その茶碗の中で、緑色に輝く日本茶がたゆたゆと揺れていました。

 しばし差し出された茶碗を見下ろし、それから目の前に座る藍玉さんを見ると、彼女は何が面白いのか、顔全体で笑みを浮かべています。


「藍玉さん」


「はい、なんでしょうか?」


 あたくしの呼びかけに答える藍玉さん。


「あたくしはお茶をお願いしたと思うのですが」


「はい、そのようにうかがっております。ですから美味しいお茶を飲んでいただこうと思いまして、とっておきの玉露を水出しでお持ちしました」


 にっこりと、藍玉さんは笑みを浮かべます。


「……藍玉さん」


「はい、なんでしょうか?」


 あたくしの呼びかけに答える藍玉さん。


「あたくしはコーヒーが飲みたいのですが」


「でしたら、ご自分でおいれになるとよろしいのではないでしょうか?」


 どうしてでしょうか。にっこりと笑っているはずの藍玉さんの目はこれっぽっちも笑みを浮かべてはいません。


「…………はい、わかりました」


 あたくしはそそくさと部屋を後にして、台所へ向かうことにしました。

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