第5話 8月16日 ゴッドブレスユー[他者視点]※

 荒々しい呼吸。

 生臭い息。

 べとべととした液体が背中に零れ落ちているのがわかる。

 気持ち悪い。

 シミになったらどうしよう。せっかくのお気に入りなのに、汚れちゃったら哀しい。


 身体が動かない。

 押さえつけられているからだろうと、どこかぼぅとした頭が冷静にそんなことを分析していた。


 背中に押し付けられたものが痛い。

 たぶん、尖っているんだ。

 服が破れちゃったらどうしよう。怪我をしたらどうしよう。血が出ちゃったらどうしよう。

 そんなことをぼんやりと考えている。


 耳元でひどくせわしない呼気が漏れる。

 ぐるぐると喉の奥がなっている。

 またぐっと腰に押し付けられて、思わず声が漏れた。

 悲鳴じゃない。

 それは――吐息だった。


 乱暴にスカートがまくられている。

 腰だけを高く上げた姿勢で押さえつけられてどれだけの時間が経ったのだろう。もう胡乱うろんな頭ではわからなかった。

 腰のあたりからは水っぽい音がひっきりなしに漏れて、それが自分の身体から分泌されたものだと思うと恥ずかしくてたまらない。


 なにより、それを自分が気持ちいいと感じてしまっていることがいやだった。

 まるで獣の交尾みたいだなんて思いつつ、自分がどんなものに押さえつけられているのかを思い出して笑ってしまった。

 だって、あたしをこうして犯しているのはその獣なんだから。


 まさしく獣。

 こわい毛。爛々と輝く赤く濁った瞳。鋭い爪。口元からこぼれる粘ついた唾液。荒く漏れる臭い息。

 そんなものに犯されているなんて思うと、心がバラバラになってしまいそうだ。


 イヤだと思っているのに身体のほうは素直に気持ちがいいなんて思っているってことは、すでにあたしの心は壊れてしまっているのかもしれない。

 ああ、そう考えると楽だ。

 もう何も考えなくってもいい。

 ただこのまま、獣に与えられる快楽に身を委ねているだけでいいのだから。


 なのに、どうしてだろう。

 涙はこぼれなかった。

 傷ついて血を流しているはずのあたしの心はずっとずっと我慢を続けている。

 まだ、壊れていない。

 あたしの心はまだあたしのもので、そこまで汚されてはいないのだと主張しているみたいだった。


 ごぼりと熱いものが身体の奥に叩きつけられる感覚に腰が震える。

 じわーとお腹の下のあたりが震え始めて、きゅっと筋肉が収縮する。


 べったりと服が身体に絡みつく。

 生暖かい感覚が気持ち悪い。

 漂ってくる臭いが気持ち悪い。


「あ、がっ、あーーーーーーー」


 わーと身体を半分に引き裂かれるような感覚に堪えていた悲鳴が漏れた。


「わ、わ、わわ、わぁあああああぁぁぁぁ」


 みちみちと肉が広げられていく感覚。身体の中に埋め込まれたモノが膨張していくのがわかる。

 でも、何が起こっているのかわからない。


 ともかくこのままだと真中からあたしが半分になってしまう。

 ろくに呼吸もできない。

 涙も鼻水もよだれもなにもかも流しながらそれを通り過ぎるのを待つしかない。


 もう抜けないのかもしれない。

 そうなったら、あたしは一生このままの格好ですごさないといけないのか。

 もうそれでもいい。

 ただ、この感覚が過ぎ去ってくれるのならそれでも構わない。


 のしかかっていた獣が位置を変える。

 互いのお尻を向け合った格好だ。

 獣の交尾だ。

 もうあたしは人間じゃないんだ。

 獣と交尾をしちゃうようなのは人間じゃない。


 もうダメ。

 あたしはもう人間に戻れない。

 哀しいはずなのに、どうしてだろう。

 涙がこぼれることはなかった。


 身体が流されるように、心まで流されてしまったらずっとずっと楽なのはわかるのに、あたしはすでにそうでもいいって思っているのに。

 それなのに、あたしの心があたしを裏切る。

 あたしの心だけがまだ反発をしている。

 まだだって。

 まだ大丈夫だって。


 何が大丈夫なんだろう。

 助けなんてこないのに。

 白馬に乗った王子様なんてこの世には存在しないのに。

 それなのに、どうして大丈夫だってあたしの心は言っているんだろう。


 さっきから注がれつづけられて、あたしのお腹はぽっこりと膨らんでいる。

 自分の身体が悲鳴をあげていることはよくわかっている。


 諦めようとしているのに、あたしの心はまだ大丈夫だって言っている。

 その根拠のない自信はどこからくるんだろう。

 あたしの心はどうしてそんなに丈夫にできているんだろう。

 もしかしたら、すでに壊れてしまっているからそんなことを言うんだろうか。


 もう、何も考えたくない。

 壊れてしまいたい。

 何もかも忘れて、このまま快楽――気持ちいいはず。そうでないと変じゃないか!――に溺れていたほうが楽なんだから。

 もう壊れてよ。

 あたしの心が壊れてくれさえすれば、あたしはこんなに苦しまないですむんだから。

 お願いだから、壊れて!


 ぐるぐると唸り声がしたかと思うと、するりとあたしを責めさいなんでいたものが抜けた。

 高く上げられていた腰をようやくおろすことができた。

 ぶるりと身体が震えた。

 身体から緊張が取り払われて、気持ちが一気に楽になった。


「ちっ、逃がしたか。追跡を。絶対に逃すな」


 凛とした声が路地に響く。

 コツコツと足音が近づいてくる。

 こんな格好、人に見られるのはいやだ。

 だから身体に力を入れる。

 四肢を踏ん張ってこの場所から離れようと手足を動かそうとする。


 なのに、あたしのいうことをちっともきかない。心だけじゃなくて、身体までいうことをきかなくなってしまった。

 もうあたしは何を信じたらいいんだろう……。


 そっと、肩になにかがかけられた。

 わずかに視界に収まったそれは黒い服だった。

 柔らかなぬくもり。さっきまで着ていた人のほのかな香りがあたしを包み込む。


「安心しなさい。もう大丈夫だから」


 肩に添えられた手にわずかに力が入ってがあたしを抱き寄せる。

 ゆっくりと顔を上げると、明るい金髪の女性がそこにいた。

 優しい笑顔だな、なんて思った。


「あ、あた……し、は……」


 何かを言わなきゃいけないと思って口を開こうとしたんだけど、うまく言葉にならない。心と身体がバラバラになってしまったあたしにはもう話すこともできないのかもしれない。


「もう大丈夫。私はカナリー・フォスター。貴女の身の安全は確保したから安心するといい」


 にっこりと微笑まれて、あたしも思わず笑ってしまう。引き込まれるような「いい笑顔」だなんて思った。


「休みなさい。今日のことは目が覚めたらすっかり忘れているから気にしないように。あのことは私たちが始末をつけておくから、貴女は明日から今までと同じ生活を送ることができる」


「で、でも、あたしはけ、もの……」


 不意に世界が白く染まった。

 何もかもが白に塗りつぶされて遠くに霞んでいってしまう。


「大丈夫。貴女の身体は綺麗にしておくから安心するといい。私たちアンヘルは貴女たちの味方なのだから。貴女は強い子だな。よく、頑張った」


 白い世界に、フォスターと名乗った女性の笑顔が残像のように浮かぶ。


「がん、ばった……」


「ああ、本当によく頑張った。貴女のような人間は尊敬に値する。自分を誉めてやるがいい」


「ほ、め、る……」


 フォスターは笑顔でうなずいていた。


「目が覚めれば、今日のことは忘れている。貴女は明日から、今までと同じように生活ができる。大丈夫、貴女は強いのだから。これからどんなにつらいことがあったとしても、貴女ならやっていける。丈夫に生んでくれたご両親と、自分自身の心の強さを誇りに思うといい」


 とおさんとかあさんとあたしと……誇り?

 感謝をすればいいの?

 ねぇ、あたしはどうすればいいの?

 あたしは人間なの?


 意識が遠くなっていく。

 音も色もかすんでいって、認識できなくなっていく。

 かすかにフォスターの声だけが聞こえる。


「……本当にすまなかった。私たちがもう少しはやくアレの存在を掴んでいたらこんなことにならなかったのに。

 だが、必ず始末はつける。二度と貴女の前に現れることはない。それを誓おう」


 白く霞んだ世界にフォスターのすまなそうな声だけがあった。綺麗に引かれた赤いルージュの唇が歪んでいるのがわかったから、あたしは首を振った。そんなに気にしなくていいよって。

 そうしたら「そうか」って嬉しそうにフォスターが笑ったのがわかった。


「……お前のところの生徒を確保した。琴乃梓に間違いはない。……見たところ外傷はないが、医療班はこっちにまわしてくれ。絶対に、傷ひとつ残さないで帰せ。……しっかりした子だが、まだ若い分、フォローは万全にして欲しい」


 遠くで声がする。

 何を話しているんだろう。

 胡乱な頭でははっきりと認識できない。


「……コボルトだ。もっとも、虎ぐらいの体格をしていたが。……いや、さすがにその場で射殺はできなかったから威嚇射撃だけにとどめている。……そのあたりに手抜かりはない。別働班を追跡につけている。ああ、絶対に逃がさない。彼女と約束をしたからな」


 遠くで声がする。

 誰と話しているんだろう。

 胡乱な頭でははっきりと認識できない。

「ことのあずさ」とはだれだろう。

「こぼると」とはなんだろう。


 ぼんやりと、白く霞んだ世界を見つめながらそんなことを考える。

 あたしは明日からいつものように生きる。そのように言われた。だからそうしなきゃいけない。

 あたしは丈夫に生んでくれたとうさんとかあさんに感謝をしないといけない。

 それから、自分の砕けなかった心をほこりに思わないといけない。


 白い世界にぽっかりと半分欠けた月が浮かんでいた。

 それだけがあたしに見えるもの。

 それだけがあたしを見ているもの。


 月が優しくあたしを見下ろし、あたしはその月を見上げていた。

 遠いどこかで、狼のような鳴き声が陰々と響き渡っていた――。

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