第16話 8月29日 〈試儀〉
「見届け役はわたしがやるわ。それで文句はないでしょう?」
挑戦的な美空先輩の声に、安土さんは苦笑したように見えた。
「別に構わないよ。七世〈銀〉に力量が不足しているはずもないし」
先輩が篝火の明かりの向こうへ消えると、入れ替わるように少女が姿を現す。
抱きかかえている日本刀は1メートルぐらいはあるんじゃないだろうか。持っている女の子が小柄だからというのもあるんだろうけど、やたらと大きく見える。
……いや。
耳鳴に似た音が、その日本刀から聴こえてくる。
ゾクリとした。
音ではない音。
死の気配を凝縮したような音。
そして一瞬だけ、僕の『耳』は刀と少女の聞き分けが、できなかった。
5メートルほど離れたところで、少女の足が止まった。炎の赤を映し込んだ瞳が、じっと僕のことを見つめる。
白い顔が赤く輝いている。
揺らめく炎のせいで陰影が変わり、万華鏡をのぞき込んでいるかのようにくるくると表情が変わっているのかと錯覚してしまう。
実際は、僕のことを見つめながら、表情はいささかも変わってはいない。ただひたりと、僕のことを見つめているだけだ。
彼女がそっと目を伏せた。よく見ていなければ見逃してしまいかねないかすかな表情の変化。
「うちは友里雪花ゆうんよ。でな、これが宗近」
小さな声でそう名乗り、抱えている大刀を少しあげてみせてくれた。小柄な彼女が抱えているからなのかもしれないけど、随分と大きな刀だった。
「あ、えっと、狭山宗哉です」
なんていうか、ものすごく間抜けな挨拶をしているなーなんて自分でも思った。
「どうして、僕なの?」
尋ねてみる。理由を聞いておかないと、どうにも落ち着かない。
「僕は君を知らない。君も僕を……」
「うち、宗哉はんのこと、よう知っとるよ」
言葉に詰まる。
「額辺のお屋敷に、〈銀〉はんに連れられて来はった時は、いつも見とった。うちだけやないよ。みんな、宗哉はんのことは気ぃかけとる」
知ってはった?と、少女はそう、小首を傾げてみせる。
そんなことを言われても、僕は自分のことに必死で、他を見る余裕なんてなかった。
突然放り出された暗い森の中で、先輩についていくのがやっとだった。きっと、先輩がいなかったら僕はその森の中で進むことも戻ることもできずにただ立ち尽くしているだけだったと思う。
だからこの子のことは……見ては、いなかった。
「宗哉はんは、〈銀〉はんの恋人さんなん?」
突然の質問に、また僕は答えを返すことができない。チラリと先輩を見ると、暗いからよくわからないけど、平然と僕を見返している……ように思う。
そう。恋人じゃないと、思う。たぶん。
確かにああいうことはあったけど、あれは僕の暴走した結果だったし、あれ以来、そういうことをしてないのかというと……実は結構あるんだけど。なんというかそれは、押し切られてるというか成り行きというか、先輩自身は子孫を残すためとか言い切ってるし……。
先輩にそのつもりはないと、思う。たぶん。
……じゃあ、僕は、どうなんだろうか?
「エエな」
ポツリと、赤い少女は言った。
僕の沈黙を、どう受け取ったんだろうか。
「うちは、一人や」
寂しげにそうつぶやく。
「うちはな、この三日月宗近の鞘にならなあかんのやわ」
そっと小さな手に握りしめられた日本刀をあげてみせる。それはまだ幼い彼女の手にはあまりに大きいものだった。
「うちはこの儀式で宗近の鞘にならなあかん。やから……やからな、宗哉はんにその相手になってもらいたいんよ。
……堪忍え」
ゆるりと。
水が流れるような、なめらかな動作で、少女は刀を抜いた。
――どうやって?
実際に目にしていたはずなのに、自分の目を信じることができない。
大きな弯曲のある刀は、少女の身長ほどの長さがある。重さだって、尋常なものではないはずだ。
それなのに少女は、ただの一動作で、彼女の身に余るような刀を抜きはなってみせた。
美しかった。
刀身が篝火を映して紅く輝く。
刀身の輝く紅に、緋色の着物。
凛とした姿は、まさに一振りの刀のようだ。
そして左手を刀身の棟に添え、掲げるように切っ先を僕へと向けた。
「……堪忍え。うち、宗哉はん殺さなあかん」
幼い言葉が、さざ波のように耳から入ってくる。
理解できない。
彼女は、何を言っている?
「どうして?」
「……堪忍え」
滑るようにスルスルと、少女が動いた。
迷う。
狼身へと変わるべきか、もう少し話してみるべきかを。
ほんの一瞬だけ、迷った。
「宗哉くんっ」
美空先輩の叱咤に、僕は戦いにおける最大のミスを犯したことに気付いた。
彼女の姿が消えていた。とっさに前に出る。意識なんてしていない。視界の範囲にいないのなら、見えていないところから攻撃がくるだろう。ただそう思っただけのことだ。
風音。
一瞬先まで僕がいた場所を銀光が薙ぐ。
嫌な汗が背中を伝う。
判断が遅れていたら、間違いなく僕の首と身体はわかたれていただろう。
これは冗談抜きで、全力で相対さないと命が危ない。このままの姿では数瞬後には殺されてしまうだろう。
思った途端に、全身が火のように熱くなった。
細胞が、猛烈なスピードで活動を開始し僕の身体を作り替えて行く。
筋繊維の質が変えられ、盛りあがる。骨格がギシギシと音を立てながら密度を増し、変形していく。毛穴という毛穴から獣臭を放つ毛が伸び、青みがかった灰色の毛並みとなる。
そして、平らな人の歯がぎりぎりと伸びて鋭い肉食獣の牙となる。
狼身への変化は、一瞬で終わった。
ちりちりとたてがみが逆立ち、震えている。
絶対的な危機。人狼の驚異的な回復能力をもってしても補うことのできない危険が迫っている。変身することによってむき出しになった本能が、そう告げている。
それが目の前に立つ小柄な少女によってもたらされるなんて、冗談にしては出来が悪い。
にじり寄るような、すり足の一歩。
少女の腰はしっかりと下ろされており、容易に隙を見出すことはできない。
じりじりと間合いが詰まる。
「ええ判断どすな」
少女は口の端をわずかにあげて笑みを浮かべている。先ほどとは、まるで別人のように。
ぎちぎちと歯を噛み鳴らす。
危ないところだった。
おそらく、あの距離が彼女の間合い。剣の結界ともいうべき距離なのだろう。
一歩……いや、半歩でも踏み込めば無事ではすまない。
「離れたゆうても、まだうちの距離どすえ」
少女は、右下に切っ先を下していた刃を、一歩踏み出して振り上げる。
刹那。
己の肩が弾けた。
「宗哉くんっ!」
その声を聞き流す。答えている余裕はなかった。
左肩を押さえる。
出血はない。だが、肩の肉が大きく抉り取られていた。
この距離で、刃が届くはずはない。カマイタチのようなものだろうか。
以前戦った忌の能力を思い出す。似たような技があっても不思議ではない。
わずかに左肩を動かす。引きつるような痛みはあるが、動かせないほどの怪我ではないのは不幸中の幸いか。
だが、いつもと違って治る気配がない。人狼の回復能力が、働かない。これが九十九の刃に斬られるということか。
こんな事態になってはじめて、死というイメージが、頭の中で具体化する。
「次は、首どすえ」
再び、少女の腰が降りた。
納刀はしていないが、左腰に刀を構えている。居合のような格好だった。近づいたら、真一文字に横薙ぎに斬られる。
それでも爪と牙が届かなければ、こちらとしてもお話にもならない。距離をとっても、中途半端な距離でも、一方的にやられるだけだ。
だからあの長い刀の間合いのさらに内側、体が密着するような距離にまで、踏み込む。
頭を振る。
ぐるりぐるりと首を回すことによって、相手との距離を正確に測る。
先手必勝。
思い切り地面を蹴りつける。
足元で小石が舞い上がる。世界が左から右へと溶ける。一気に5メートルを飛ぶ。少女は視界に捕らえている。動きはない。
左足でもう一度地面を蹴る。今度は右から左へと景色が飛ぶ。
二度のフェイント。少女の振り出しとクロスするような突入なら、その交差する一瞬の攻撃さえ外すことができれば勝機はある。
視界に収めた少女は両目を瞑っていた。
くっ――――。
構わずに、少女の右前方から左後方へ抜けるように迫る。
転瞬、少女の姿が消えた。
頭で考えるよりも早く、しゃにむに地面を蹴る。
体が大きく浮き上がり、己は無様に背中から川の中に落下した。
肺に入った水を吐き出しながら起きあがる。
少女は、先ほどまで己が立っていた位置から、平然とこちらを見ていた。
――速い。
目が追いつかない。
人狼の敏捷さは他の種族の追随を許さないと聞いていたが、こと踏み込みのスピードに関しては九十九に軍配が上がるらしい。
目で追えないどころではない。瞳にさえ映らないスピードだ。これでは話にもならない。
いや。
川原なら、そうだろう。
だが、水の中ならどうだろうか。
腰まで浸かった水の中では、水に身体をとられ動きが制限される。足場も、乾いた川原に比べて格段に悪い。
もちろん、己のスピードも落ちる。
だが、筋力が圧倒的に劣る相手の方がより大きなハンデを負うはずだ。そうなれば、互角に戦える。
ジリと、後ずさりする。
緩やかな水の流れとはいえ、予想以上にバランスを取ることが難しい。
あのカマイタチの間合いは、どのくらいなのか。
水底は川原から離れるに従い深くなっていく。あまり深みへ近づいては、自分自身が動けなくなってしまう。
少女は無表情のまま、刀を左脇に、切っ先を地面にするほど低く、構えた。
さらに、ジリリと後ずさる。
耳鳴が聴こえる。
耳鳴に似た音。むせび泣くような、三日月宗近の音。まるで、死の気配を凝縮したような。
それを操る、無表情な少女。
ふと、疑問に思った。
こんな状況にも関わらず、疑問に思った。
彼女自身の音は、どこにあるのだろう。
九十九の本体は、それを操る人ではなく物の方だと言っていた。
だったら、今あの刀を振るっているのは、あの子ではなく、あの刀そのものではないだろうか。
ならば、彼女自身は、どこにいる?
――うちは、一人や――
彼女の――雪花の言葉が、頭に浮かび上がる。
寂しげなセリフと、寂しげな表情と。
馬鹿か、己は。
今そんなことを考えたら――。
予備動作もなく、静止していた少女が動いた。
カマイタチを放つまでもなく、自らの足で水の上を駆ける。
…………駆ける!?
少女の足先は水面に波紋を作るだけで沈むことはなく、速度を落とさず己に向かってくる。
バケモノめッ!
両手を組み力任せに水面に叩き付ける。
巨大な水柱が立つと同時に右の水中へと身を投げる。そして横目に、とんでもない物を見た。
水柱が、斬れた。
中程から斜めに。
凍っていない水がまるで何でもない板のように、スッパリと、斬れた。
その向こうから、赤い服を着た少女が飛び込んでくる。
彼女の身体は、宙にある。
チャンスだ。
己はまだ不安定な体勢を無理やり起こし、まとわりつく水をパワーにまかせて振り切って、彼女へと飛びかかる。
踏ん張ることのできる地面がなければ、動きは制限される。ここを逃せば、勝機はない。
少女がこちらを見下ろす。
腕は頭上。大上段から、あらん限りの力を持って今まさに振り下ろさんとしている。
直感した。
罠だ。
罠にはめたつもりで、逆にはめられた。
ドクンと、心臓が大きく一打ちする。
それは、熱く、激しく、猛々しい。
身体の奥から、狂暴な何かが頭をもたげた。
狼の本性。
己は止まらずに、牙を剥きだし、彼女の細い首筋を狙った。
時間の進みが、急に遅くなる。
彼女が腰をひねり、剣尖が己の頭目がけて理想的な螺旋を描く。
身体の動きが鈍い。
殺られる。
少女の顔がふと曇ったように見えたのはその時。
切っ先が、耳を掠める。
左腕が、断ち斬られる。
「宗哉くん!」
先輩の声が耳朶を叩く。
己は――
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