第3話 9月10日 少女との遭遇

 太陽は西に傾き、町が赤く染まる時間。揺らめく町は陽炎じみていてひどく不安さをかきたてる。


 目の前にある長い髪が、時折吹く風に揺られて柔らかな曲線を描いている。

 美しい髪の持ち主――美空先輩だ――の顔は見えないけれど、どんな顔をしているのかなら簡単に想像できる。

 無表情を装って、それでいてその綺麗な両眼は獲物を捕らえるためだけに、絶えず小刻みに動き続けていることだろう。


 油断はできない、と先輩は言った。もちろん、僕もその意見に同意する。

 あれから――美星ちゃんが百道先輩に襲われてから――ずっとあの忌を追いかけているけれど、その尻尾すらつかめていない。よほど擬態に優れているとみえる。


 狩人としての本能が囁きつづける。


『この敵には気をつけろ』


 と。


 実際、彼の能力は侮ることができない。

 すれ違いざまにかすり傷を負わせるだけで、対象が死にやすくなるなんていうのはたまったものではない。もし僕でなければ、とっくの昔に死んでいただろう。


 事実、少し前に夜属の長老たちが不可解な死を迎えるということがあった。あれはおそらく百道先輩がやったのだと思われる。

 同時期に鬼子として目覚めた僕が犯人ではないかと疑われていたのだけれど、ほとんど証拠の残らない彼の能力ならばわからないのも当たり前だ。


 まさしく、彼はジョーカーのような存在だ。

 死を振りまく鎌を持ちし者。

 人狼の全てを斬り裂く爪と、鋭い牙と、優れた回復能力を持っていようと、彼の能力にかかれば意味を為さない。豊富な戦闘経験を積んだ美空先輩ですら、あの能力の前では無力だろう。


 だからきっと、彼に対抗できるのは僕だけだ。

『未来時の音を聴く』ことのできる僕だからこそ、彼の死の腕から逃れることができたのだから。


 こうして先輩と共に狩りを続けているのは、彼女を百道先輩から護るという意味もあった。僕であれば、あの能力にも対抗できるから。


 でもそんなことを口に出せば、先輩はいつものあの表情で「必要ないわ」なんて切って捨ててしまうだろう。だからこのことは話すわけにはいかない。


 僕の胸の内にだけ秘めておく、それは誓いだ。

 絶対に、僕は美空先輩を護ってみせる。


 風がやんだ。

 それにあわせるようにして、先輩が足を止める。


「先輩、ここにはいないみたいです」


「……そう」


 短く伝えて先輩を促す。先輩もうなずいて、止めていた足を動かす。


 いつもは日が暮れて世界が闇色に染まってから行動を起こすようにしている。

 影に紛れて行動をすれば人目に付きにくいというのがその最大の理由だけれど、時と場合によってはこんな時間からでも動くことはある。


 先輩は一定のペースで歩いている。僕も同じペースで歩いているから、二人の距離も常に等距離に保たれる。


 日がすっかり沈むまで、あと数十分といったところだろうか。赤々とした太陽はどこまでも大きく町に飲み込まれるように沈みつつある。


 夕日に染まる先輩の後ろ姿と、それを覆い隠していく自分の影で気付く。

 夜になれば自由に動き回れる。人目を気にして、こんな非効率な方法を使わなくてもよくなる。

 僕らは人狼――ヒトではないのだから。


「そろそろいいわね」


「そう、ですね」


 それは狩り本来のやり方に戻すという合図。


「じゃあ、宗哉くんは少し戻って、さっきの交差点を右へ曲がって。わたしはこのままこちら側を探してみるわ。

 それから、このあとに額辺の地所へ行くからそのつもりでいてね」


「はい」


 僕が踵を返すと、先輩は一瞬で数メートル先の建物へと飛び上がった。

 見なくても音でわかる。


 駆け出そうとした瞬間、視界の端に人影が見えた気がした。何気なく返した踵を元に戻す。


 今の僕は普通のヒトにしか見えないし、先輩の動きなんて普通のヒトには意識されることもなかっただろう。

 特に気にする必要はない。


「……いない?」


 ほんの一瞬、物思いに耽っていた間に確かにいたはずの人影は何処にもいなくなっている。


 なんだ、コレは?


 胸が熱い。

 どうしてこんなにも喉が渇く?

 一目しか見ていない、ぼんやりとしか捉えていなかった人影が妙に気にかかる。


「あれは……」


 はじめは静かに、そして段々と速くなる鼓動に何かを思い出しそうになる。




 ―――――――――――――――暑い、夏の夜。




 見失ったそれを慌てて探す。




 ―――どこにでも似たような噂は広まってるわ。




 いた。道路の先の曲がり角。




 ――――――――ひび割れ、飛び散ったガラス。




 角を曲がる時、横顔が見えた。




 ―――それで、こう呼ばれているんだって。




     ――黄昏刻の少女――




 口元を引き結んで、僕は駆け出した。

 先輩に言われた交差点へではなく、正反対の曲がり角へ。




 ―――――――身体から聴こえる、悲痛な悲鳴。




 心の中では、いつかの出来事が流れている。

 終わったはずの記憶が、再び色を帯びて鮮やかに蘇ってくる。まるであの時に戻ってしまったみたいに、正確に、一部も欠けることなく、閉じ込めたはずの想いまでもが一緒に、沈んだ箱から浮かび上がってくる。




 ――――――――――――――――無言の人形。




 尖った爪が、手の平に突き刺さる。その痛みまでもが記憶とリンクして、より一層、記憶が確かなものになっていく。


 正直、あまりいい気分ではない。

 心が嫌な音を立てている。

 けれど、頭だけは冷静に少女を追跡することだけを考え、身体はその指示に従って音も立てずに静かに移動していく。




 ――――――――――視界は一面、真赤な朱色。




 そこで記憶が途絶える。

 不思議なことに、途絶えた途端にその続きを見たくなった。

 同時に、終わったそれをもう一度再生させないほうがいい気もする。


 結局、後をつけることに全てを集中させた。

 後味の悪いどろどろしたものだけが胸に残っている。それはさっさと捨ててしまいたいのに、何かがひっかかってできない。


 少女は歩く。

 その後姿に見覚えがある気がする。


 彼女は誰なのだろう?


 黄昏色の服。長くたなびく亜麻色の髪。少女が一歩進むごとにそれらが風に揺らめく。


 そういえば委員長が言っていた。何でも彼女を見ると命を落とすらしい。いや、正しくは昼の世界から連れ出されてしまう、ということだっただろうか。


 もしそれが本当だとしたら、僕はどうなるのだろうか?


 僕はヒトではない。

 つぐみや、委員長、黛たちとは違うモノ。

 それはとても寂しいことだけれど、みんなが暖かい昼の世界で暮らしていることは、少なくとも僕にとっては嬉しいことだ。


 僕は昼と夜の境界線上に生きている。

 どちらの世界へ足を踏み出すこともできずに。

 そんな僕を、あの少女はどこへ連れて行くのだろう?

 その答えが知りたくて、僕は少女を追い続けた。




 少女が辿り着いた先は建物の屋上だった。本来あるはずの障害はすべて存在しなかった。つまり、閉ざされているはずの扉は開いていたのだ。

 遠くに見える夕日が、思っていた以上に時間が進んでいないことを教えてくれる。


 いや、そうではないのかもしれない。

 僕は少女に連れられて、この『世界』に来てしまったのかもしれない。


 昼ではなく、夜でもない。

 黄昏刻の世界へと。


 ふわり。


 少女が動いた。重力を感じさせない動作でフェンスの上に飛び上がる。

 さっきまで、ぼんやりとしか見えていなかった少女の姿がはっきりと映る。


 あれ?

 何か、大事なことを忘れている。

 あれはたしか……。


 そこで再び、止まっていた記憶が動きだした。




 ――――――――――視界は一面、真赤な朱色。




 そう、あの時は何も考えられなかった。




 ――――――――明るく光る車のヘッドライト。




 あの日は今日の夕焼けみたいだった。




 ――――――――――――――光を浴びた人影。




 そう、そしてその先は……。




 ふわり。


「……あ」


 どこか呆けたような呟きで、現実に戻ってくる。

 そんな僕を置いて、少女が動く。

 思わず見とれてしまいそうになるくらい、幻想的な光景にしばし言葉を失う。


「待てっ!」


 少女は少し上に浮かんだかと思うと、そのまま当然のように――


「くっ……」


 慌てて少女に追いつくために地を蹴った。人間の姿のままでも、今の僕の動きは常識のレベルを超えている。


 少女がちらりと後ろを見た気がした。

 なぜか、微笑みを浮かべていたように見えた。けれどそれを確かめるよりも早く姿が消えていく。

 いや、落ちた。


 伸ばした手がフェンスにぶち当たる。

 少女に触れることは叶わず、そのままフェンスから身を乗り出した。


「……いない?」


 見下ろした先に人影はなかった。

 少女は消えた。


 それがわかると、ほっとしたような、苛立つような、訳のわからない感情で満たされる。


 胸が鳴った。

 一度、高まりだした鼓動はなかなか静まってはくれない。

 身体が熱い。

 血が騒いでいる。


「なん、で……?」


 答えはわからない。

 ただ、やっぱりあの少女には見覚えがあった。

 ずっと昔?

 それとも最近?

 考えれば考えるほど、鼓動が速くなっていく。


「あの子は、一体……」


 絶対にわかることのない疑問が、ぐるぐると頭を駆け巡る。少し、立っているのが辛い。


 眼を閉じて、深呼吸を繰り返す。

 冷たくなり始めた秋の空気を胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ気持ちが落ち着いた。


「先輩のところに戻らないと……」


 心配しているかもしれないし、そうではないかもしれない。

 すでに、夕日は沈みかけている。


 夜の訪れを報せている空の下。誰もいなくなった屋上では、ただ秋の気配をはらんだ風が、ゆるく通り過ぎていくだけだった。

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