第4話 9月17日 不信

 なぜだか先輩は、〈会〉が終わってからやけに僕に対する対応が柔らかい。

 もともと、先輩は他人に対してあまり心を開かないみたいだったし、そういう観点からすれば喜ばしいことには変わりないのだけれど、正直なところ対応に困るというのが事実だったりする。


 学校は天川祭へ向けての準備が大詰めを迎えようとしている。連日の作業のかいあって、クラスの出し物はほぼ形になっているみたいだった。


 それでも、祭りを前にしたどこか無秩序な盛り上がりに僕は微妙に乗れないでいる。

 それは、僕が人の生きる世界から、夜属の生きる世界へと足を踏み出してしまったことに関係があるのは間違いないだろう。

 それが少し寂しい。


 まだ、百道先輩を探し出せてはいない。

 危険な存在であるのはわかっている。そして、僕をターゲットにしていると口にしたのはその先輩自身だ。必ず、また僕のところへやってくる。


 そのときには――容赦しない。

 僕は、百道先輩を殺す。


 肝心の忌は見つからないというのに、黄昏刻の少女らしき姿を僕は見てしまった。

 けれど彼女は僕をどこへも連れてってはくれなかった。やはり僕のような化け物は眼中になくって、普通の昼に生きている人たちしか連れ去らないってことなのだろうか? 何とも皮肉な話だ。


 連れ去る云々は置いておくとして、彼女の正体は一体なんなのだろう。

 この目で確認した身としては、あれがお化けだとかいう説は採用したくはない。

 だからといって、人間なのかと問われれば即答はできそうにないのだけれど。屋上から飛び降りて姿を消すだなんて、美空先輩ぐらいでないとできそうにない芸当だ。


 彼女は僕を見て笑ったのだと思う。

 ちょうど夕方から夜へ時刻が変わる頃でディテールまではっきり確認することはできなかったとはいえ、僕は人ではなく人狼だ。だから人間よりもずっと優れた視力を持っている。


 なぜ、笑ったのだろう?

 それが気になる。


 気になるといえばもう一つあった。

 僕が彼女を見たときに感じたこと。どこかで見たことがあると思ったのはなぜなのだろう。


 あれから何度も思い出そうとしたけれど、霧がかかったように何も思い出せなかった。まるで思い出したくない記憶だから、覆い隠してしまったかのようにおぼろではっきりしない。

 もし、彼女を見たことがあるのなら、そのせいで僕は夜の世界に来てしまったのかもしれない。

 そう思うと、どこかやるせなかった。




 最近、黛との距離感が以前と変わった気がする。

 それはきっと、僕自身の環境が変化していることと、保健室での一件を見てしまったからだと思う。どう接していいのか少し迷っていると言ったらいいのだろうか。


 それらは僕の一方的な問題に過ぎない。黛は相変わらずで、つぐみをからかったり、クラスの友達と笑い話をしたりしていた。

 考えてみると、途中編入の黛は周囲に上手く溶け込んでいるようだった。


 そういえば、黄昏刻の少女について初めて知ったとき、黛はやけに気にしていたのを思い出す。

 僕が彼女らしき姿を見かけたという話をしてやると喜ぶかもしれない。


 黛のことを友達だと言ったのは僕自身だ。

 その言葉には、誇りを持ち続けたいと思う。

 黛の友人であると胸を張り続けていたい。

 今は少しだけ気持ちがすれ違っているだけで、しばらくしたらそんなことはまるでなかったような関係に戻れると僕は信じたい。


 僕は、人狼だ。

 そんな僕でも、唯一、昼の世界と関わりが持てるとしたら、それはやはり友達なのだから。

 たとえこれから先に別れが待っているとしても……いや、それならば一層、今この時間は大切にしないといけない。


 その貴重な時間は僕が思っている以上に長いかもしれないし、短いかもしれない。だからこそ少しでも長く今の生活が続いたらいいと思う。


 教室を見渡してみたけれど、黛の姿はなかった。一人でお昼の買出しへ行ったのだろう。いつものパターンなら屋上へ行けば会えるはずだ。

 僕は購買でパンを買ってから、屋上へ向かうことにした。


 屋上への階段を上りきると目の前には鉄のドア。


「いった……どう…つもり?」


 屋上の扉を開けようとして、手が止まった。

 今の声は……美空先輩だろうか?


 静かに耳を澄ます。扉の向こうで再びぼそぼそとした声が聞こえる。

 やっぱり先輩の声だ。聞こえにくいのは、きっと先輩がこちらに背を向けて話しているせいだろう。

 先輩が喋っているということは、当然、他にも誰かがいるってことだ。


「……と……さい」


 先輩の声はドア越しでも冷たく聞こえる。絶対零度の声は相手の心を正面からえぐる。どうやら誰かを詰問しているらしい。

 すごく気になる。そっとドアを開けて確かめてみようか? けれど、下手にこの言い争いの場に入るのはどうにも気が進まない。


「た…がれ……の……」


 今、先輩はなんと言った?

 どうして先輩が、そんな噂話のことを話しているのだろう。

 もちろん、先輩だって女子高生なのだからその噂が耳に入ることなどないとは言えない。けれど、他人と一線を引いてしまっている美空先輩に、あえてそんな噂話を聞かせる人はまずいないのではないだろうか。


 駄目だ、どうしても気になる。

 呼吸を殺してゆっくりとドアに近づくと、慎重にノブを回す。

 音を立てないよう、ドアを細く開けていく。


「貴方には関係のないことですよ」


 その声に今度は呼吸が止まった。


「そう、宗哉くんに手を出すというのならば容赦はしないわ」


「……ご自由にどうぞ」


 この声の主を僕は知っている。

 当たり前だ。彼と僕は親友なのだから。


 でも、どうしてあいつが美空先輩と言い争いをしているのだろう。どちらかというと先輩とは上手くやっていたはずなのに。


「あくまで邪魔をするというのね」


 問い詰める声は氷の刃だった。


「別に邪魔をしているわけではありませんよ。僕には僕の任務がある。だから、それを果たす――ただそれだけですから」


 任務? 任務って何のことだ? どうしてただの高校生からそんな言葉が出てくるんだ?


 また、喉が渇く。

 さっきから流れている冷たい汗によって水分を奪われてしまっているのだろうか。


「笑わせないで。あなたの正体をわたしが知らないとでも思っているのかしら?」


 挑戦的な声だった。

 先輩のそんな声は初めて聞いた。

 何を焦っているのだろう。

 どうしてそんな話し方をするのだろう。


「あなたの果たすべき役割はただの監視でしょう? わたしや宗哉くんにあなたが勝てるとでも思っているの?」


 それもどういう意味だ?

 どうして黛と僕が戦うなんてことになる?

 もしかして忌だとでもいうのか?

 でも、もしそれが本当なら監視なんて言葉は使わないはずだ。


「あなたたちがどれだけ協力し合っても、どうやっても超えることのできない壁というものがあるのがわからないみたいね」


「越えられない壁、ですか。それでは、どうして貴方は焦っているのですか?」


「焦ってなんていないわ。望むのなら、今ここで相手をしてもいいのよ」


「それはやめたほうがいい。ヒトが種としてどれだけ恐ろしいのかは、貴方もわかっているはずだ」


「そんなこと、関係ないわ。ヒトはヒトらしく、大人しくして計算機の前で座っていればいいのよ」


 視界が暗くなる。

 ああ、そういう、ことなのか。


 周りの人たちにはずっと昼の世界で暮らしていて欲しかった。くだらないエゴだとわかっていても、それを望んだ……なのに。


 ガクガクと膝が震える。

 もう自分の力だけでは立っていられない。

 どうしてこんなことになるんだろう。

 どうして僕の周りに起きることはこんなことばかりなのだろう。


 じんわりと世界が歪む。

 外からは先輩と親友の声が、はっきりと聞こえてくる。

 ずるずると膝をつく。


「黛、さよい……」


 黛が――

 僕の親友がアンヘルだったなんて――

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