第4話 7月1日 昨夜の残滓

 下駄箱で上履きに履き替えて校舎に入ったところで思わず足が止まる。

 窓ガラスがすべて割られていて、廊下がひどい有様になっている。


 それは夢で見た光景とまったく同じ。

 違うところをあげるなら、今は太陽の日差しが差し込んでいることぐらいだろう。


 なぜだかぞわりとする。背中を不気味な蟲が這い上がってくるかのような気味悪さを感じる。

 どうして僕はこの光景を知っているのだろう。


 ここにはいたくない。こんな光景を僕が知っているはずがない。

 思わず後ずさりをする。


「んみゅう」


 けったいな鳴き声がしたかと思うと、紙が一面にぶちまけられた。

 振り返ると、床に散らばった書類をオロオロと見る綾乃ちゃんがいた。


「あ、すみません」


「もう、狭山君の前方不注意よ」


 ぶぅとばかりに綾乃ちゃんのほっぺが膨らんだ。でもこの場合、前方不注意なのは僕の背中にぶつかった綾乃ちゃんのような気もするんだけど。


 彼女は佐倉さくら綾乃あやの先生。僕のクラスの担任だ。

 頼りになるお姉さんを自任しているけれど、生来のドジっぷりと天然ボケっぷりで生徒たちからの親近の情を集めている。

 そんなわけで、通称は「綾乃ちゃん」。ちょっと目の離せないお姉さんみたいな感じの人だ。


 朝が弱いはずなのに、こんな時間から学校にいるなんて珍しい。天変地異の前触れかもしれない。

 ……もしかして、寝ぼけていたせいで僕にぶつかったとか? ありえそうな話だ。


「すみませんでした。ケガはないですか」


「うん、そっちは大丈夫なんだけどね。でも書類が散らばっちゃった」


「それは拾います。でも、前方不注意は綾乃ちゃんの方じゃないんですか?」


 散らばった書類を集めながら言ってみた。


「う、それはそう……かも」


 んみゅうと可愛らしい声で綾乃ちゃんがへこむ。

 そういう仕草が年上であることを感じさせないんだろうと思う。ついでといってはなんだけど、先生としての威厳も感じない。そんなところが綾乃ちゃんの人気の一端でもあるんだろう。


「先生も悪かったわ。でも、狭山君も気をつけないとダメよ」


 胸を張って威厳を持たせようとしているみたいだけど、なんとなく小さな女の子が背伸びをしているみたいで可愛らしい。


「はいはい、以後、気を付けるようにします。綾乃ちゃん」


「むー。綾乃ちゃんじゃなくて先生と呼びなさい」


 廊下は窓ガラスの破片が飛び散っているから気をつけて書類を拾わないといけない。


「朝一番にこれのせいで学校に召集されちゃったのよ。もう、いったい誰のいたずらなのかしら。困ったものね。ともかく事務の夕雅ゆうがさんにお願いして片付けてもらわないと……」


 綾乃ちゃんの言葉が僕の中を通り過ぎていく。


 これは本当にいたずらなのだろうか。

 僕が昨日の夜に見た光景はなんだったのか。

 わからない。

 あれは夢ではなかったのか。

 では、この状況は何なのか。


「ところで、狭山君はこれから暇?」


 拾い集めた書類を手渡したところで聞かれた。


「暇だったらちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだけど」


 手伝いの内容は気になったけど用事があるからと断って、綾乃ちゃんと別れた。

 といっても、本当に用事があるわけじゃない。ただあのまま混乱した状態で綾乃ちゃんの手伝いをしたって迷惑をかけるだけじゃないかと思ったのも事実だ。


 あてもなく、ふらふらと学校を歩き回ることにした。そうして時間をつぶしたほうが何も考えずにすむだろう。


 深呼吸をする。朝の空気をいっぱいに吸い込んでイヤな考えを追い払おうとしたけど、逆効果だったらしい。

 あの廊下から離れてみると、冷静になった自分が夢で見た光景と、さっきの光景を見比べている。


 あの廊下の向こう。

 そこにひとりの少女が立っていた。

 右目だけがほの蒼く輝く、巫女装束を着た少女。

 一面が赤い光点によっていっぱいになって、その赤に照らされた少女は笑っていた。

 嬉しそうに。楽しそうに。


 どうしてワラッテイタノダロウ……。


 わからない。

 考えがまとまらない。

 なんだか、ぽっかりと口をあけた暗い淵に片足を突っ込んだような感覚だ。

 わけがわからない。

 けど気味が悪い。

 そんな感覚だけが残っている。

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