第15話 8月2日 無為な日々

 何日が過ぎたのだろう。

 数えるのをやめてから数日かそれとも一週間か。

 ただ茫漠と日々が過ぎる。

 僕はただ、その無為に過ぎていく時間の澱に埋もれて、眠る毎日を繰り返している。


 何をすればいいのか、何をしなければならないのか。何一つわからない僕にできることは、ただ時間が過ぎるのを待つことだけだった。

 今日も一日が始まる。

 そして、そのうちに終わるだろう。


 だけど――時間は僕を待ってはくれなかった。


 夜。

 電柱の影に、男がいた。


 くたびれた藍染めの着流し。

 一本歯の下駄を履いて、まるで山羊のようなあごひげを垂らしている、時代錯誤といっていい老人。

 それだけでも異様なのに、老人の右目は、糸で乱暴に縫い止められていた。

 見覚えは――ある。


「久しいな、〈銀〉の仔よ」


 老人――梨田蓬はそう、口を開いた。

 会いたくもない相手だった。

 彼を最初に見かけたのは、美空先輩と一緒に額辺のお屋敷へと行った時。

 ならば、相手の素性など知れている。


「何かご用ですか?」


 そう尋ねる声が、我ながら尖っている。

 相手の用件がわかり切っているからだろうか。


「忌は狩らねばならぬ。さもなければどうなるか、主もわかっておろう」


 わかるものか。

 そう、答えたかった。

 だけど。

 忌は人を喰らう。

 人の死を喰らう。

 それを、放っておいていいものなのか?


 自問自答する間にも、老人の言葉は続く。


「天耳の神通を持つ主が忌を発見したのはごく自然なこと。それが知り合いじゃったというのは不幸なことじゃが……」


「何が言いたいんですか?」


 不快感がこみ上げる。

 待っている結論が自分にとってとても嫌なものである気がして。

 挑戦的な言葉に、老人はなぜか笑ったような気がした。


「此度の忌のことよ。主が狩らぬというなればそれでもよい。そのときは、わしか、〈銀〉のいずれかが狩ることになろうな」


「―――っ!!」


 思わず睨みつける。

 老人は低い笑いを漏らした。


「猶予は三日。三日後の夜半に、わしか〈銀〉のいずれかが、仕掛けることになろうの」


 ――そうされたくなければ、それまでに自分でなんとかするがいい――


 言外にそう言って、老人は夜の闇に消える。

 後には、呆然となる僕一人が残された。


 僕はどうするべきなのか。


 わからない。

 わからないのに、時間は僕を待ってはくれなかった。


 キリキリと、どこかで何かが回る音がした。




 手だけ伸ばして枕元の携帯の液晶を確かめる。

 滝沢、という名前を思い出すまでしばらくの時間が必要だった。

 最近は疎遠になっていた中学の同級生だ。


 通話ボタンを押そうとすると、切れた。


 ………………。

 …………。

 ……。

 どうしようかと考えて、迷ったけれど、結局、かけ直すことにした。

 二回目のコールで出る。


『おう、狭山か。久しぶり』


「うん、久しぶり。さっき電話が、着信に入ってたから。どうしたの、いきなり」


『……うん。あんま、よくない話だ……』


「よくない話、最近聞き飽きてるよ」


『そうか……。うん。あのな。おまえ、金本とも仲良かったよな』


「うん。……高校入ってからはそうでもないけど。あいつ、三崎高いっちゃったからね」


 その名を口にすると、ずきりと胸が痛んだ。


『……ああ。それがな…………自殺、したんだ』

『……昨日のことなんだ。飛び降りだって』

『憶えてるか、朝比奈先輩。……まぁ、おまえら、つき合ってたもんな』

『朝比奈先輩が発見者でさ――』


 ほら、また音がする。

 カラカラと遠く遠く世界の崖てから音がする。

 壊れた歯車の回る音が聞こえてくる。

 壊れた世界の音がキリキリと回り出す。


 リフレインする言葉。

 僕はもう何も聞いていない。

 知らない方がいいこと。

 知らなければならないこと。

 壊れた歯車の音だけが大きく重く一杯になる。

 世界が端からがらがらと音をたてて崩れていく。


 僕はどうするべきなのか。

 僕はどうしたらいいのか。


 誰も教えてはくれない。


 一つだけわかっていること。


 それは――

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