第19話 9月21日 抜け殻
「どうして」
いつの間にか先輩が力を抜いている。瓦礫の山になった教室の真ん中で、人形のような無表情で立ち尽くしている。
しがみついたまま僕は手を離さない。先輩を抱きしめた腕にかえって力を込める。
「どう、して、って…………」
「あれは忌よ」
先輩は僕を見ていない。
もしかするとどこも見ていない。
ただ、美星ちゃんの飛び出した窓の外に広がっている、暗く淀んだ夜を見ている。
「あ、れは……美星ちゃん、だから……」
「忌よ」
ぞっとするほど冷たい声がする。
背筋が凍るほど無色透明な先輩の声は、刃物のように鋭く堅い。
「……いもうと……でしょ。先輩、の……」
「忌よ。一人殺してる。彼を殺したわ。彼女が死んだら、二人になる」
機械と話している気がした。
腹の底が冷えてくる。冷たくて重い。
恐怖と嫌悪が芯から熱を奪っていく。
やってやる、と思っていた。
思っていたのに。
「――追うわ」
美空先輩が窓に近づく。
吐き気を押し殺して顔を上げる。重い足を引きずりながら踏み出す。
先輩の肩を掴んで声をかける。
「まって」
「なあに」
いつもの、先輩の、声がする。
「僕が、行く」
「殺せないでしょ、宗哉くん」
言葉に詰まる。
やってやる、と思っていたのに。
そんなもの紙くずほどの足しにもならない。
どうすればいいのかわからない。
何をすればいいのかもわからない。
ただ、先輩を行かせてはいけないことぐらいはわかっている――つもり、だった、のに。
「僕が、行くから」
声を絞り出す。
希望でない願望を思い描く。
そうしなければ暗くて重い思いの質量に押し潰されそうになってしまう。
忌となった人間が元に戻れるかどうか。
そんなことはわからない。
けれど、きっと何か方法があるはずだ。
………………いや、きっとある。
『アレ、なんややたらタチ悪うて――』
『うちの若い衆ようけやられたり――』
思い出す。
あのときの会話の意味にようやく気付いて怖気を振るう。
一人殺してる――
違う。
二人になる――
それどころではない。
虚脱感に襲われた。体の力抜けていくのを辛うじて押しとどめる。
体が動くのを拒否し出す前に、動かなければならない。
時間がない。
解答も手段も確率も可能性も、ありとあらゆるものが足りない。しかし、何もしなければ事態は悪化し、状況は劣化し続ける。これ以上悪くなるということが想像できず、現実がいつも想像をあっさり踏み越えてしまうことを実感する。
時間との戦いだった。
他の誰かが動き出す前に、夜属に、他の誰かに何かに知られてしまう前に、美星ちゃんをどうにかしなければならない。
それ以上考えが進まない。
考えるのがイヤで、動いていなくては耐えられなくて、後ろも見ずに教室を出る。
「そうやくん」
扉のところで先輩の声がした。
「――あなたは、わたしの、みかた、よね」
平坦な声だった。
何かに火がついた。
叫んだ。
「ぃもうとだろぉっ!」
激しい怒りが、平然と美星ちゃんを殺すという先輩への間欠泉みたいな憤りが、先輩の背中を見た瞬間に凍てついてしまう。
先輩は振り返らない。
孤独のように、拒絶のように振り返らない。恐ろしかった。振り返られるのが何よりも怖かった。
どんな顔で、どんな表情で、僕を見るのか知るのがイヤで、ぎゅっと目をつぶり、拒否するように背を向ける。
「――いくの」
「いきます」
それ以上口もきかない。
怒り以上に怖かった。美星ちゃんを追いかけるよりその場から逃げだしたくて両脚を動かした。そのくせ何かを口にした途端、口汚く先輩を罵ってしまいそうで、溢れ出そうな言葉をぐっと堪えた。
あてもなく夜へ、僕は走り出した。
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