s27人狼奇譚

第1話 10月4日 水鏡

 秋の冷えた夜気に満ちる、ねっとりと甘い匂い。


 刃だった僕は去り、人である僕がたち戻る。

 いや、ケモノなのかも、しれない。


 血の薫りにはもはや嫌悪感はなく、ただ、どうしようもないやるせなさだけが残る。


 星月夜。

 月光に遮られない満天の星明かりが、彼女の体を優しく包む。


 最期の瞬間、彼女は不幸だったのだろうか?

 それとも、幸せだったのだろうか?

 見ていたものは、良い夢だったのだろうか?

 それとも、悪夢だったのだろうか?


 僕には、わからない。

 きっと、一生わからない。

 僕自身のこともわからないのに、どうして他人の心がわかるだろう?


 彼女の泣き笑いの顔を、僕は知らなかった。

 彼女の背負った闇の深さを、僕は知らなかった。

 知っていたのは、いつも学校で見せるタンポポの綿毛のような笑顔。

 ゆらゆらと不安げで、それでいて柔らかで暖かなあの笑顔。


 でも、僕の知っていた当たり前であったはずの日常は、他人の側面を僕というフィルターに通した一面の世界でしかなかった……。


 ……いや、きっと。

 他人を完全に理解することなんて、誰にもできないのだろう。

 だから、誰もが他人を求めるんだと思う。

 自分の中の、欠けた一部を他人の中に見出そうとする。

 たとえばそう、僕の中の欠けた部分を、美空先輩が持っていたように。

 今の僕には、それがわかる。


 やけに先輩に逢いたかった。

 ぬばたまの髪をした少女。

 いとおしい雌狼。


 たくさん、話したいことがあった。

 綾乃ちゃんが忌だったこと。

 この手にかけたこと。

 彼女は、なんと言うだろうか。

 何も話さずに、うなずくだけだろうか。

 そんな気もする。

 ただ、逢いたかった。


『あの、狭山様、聞こえますか? もしもーし。聞こえますー?』


 不意に声がかかった。きょろきょろとあたりを見渡してみるけれど、人影はどこにもない。


『あらら、やっぱり初めて組む術って制御が難しいですね。もしかしたらこっちの声が届いてないのかしら?』


 この声は間違いない。額辺のお屋敷にいる女中さんのものだ。


 そういえば、星明りが淡く寄り集まって、ぼんやりと背景に溶け込むようにその顔が浮かんでいるような気がする。


『あら、気がつかれましたか? 額辺屋敷の藍玉あいぎょくです。私の声は届いていますね?』


「は、はい」


『あらー? やっぱりそちらの声は届かないみたいですね。とりあえず、お伝えしなければならないことだけをお話します。よろしいですか?』


 慌ててうなずく。

 いつもの声音に、若干の焦りが混じっていたように感じたから。


『「夜見よみの儀式」のために〈銀〉様が人穴ひとあなへと向かわれました――』


 人穴――磐座いわくらにポカリと開いていた、暗い穴。


『――残念ですが、このままでは〈銀〉様のお命はありません』


「……それは、どういうことですか?」


『〈銀〉様はケモノへと堕ちたことにより、自らのあかしを立てなければならなくなりました。ですが、これまでに一人としてこの儀式から無事に戻った者はいません』


 どういうことなんだ?

 どうして先輩がそんな儀式を受けなければいけないというんだ?


『お急ぎください、狭山様。〈銀〉様をお守りできるのは狭山様しかいらっしゃいません』


 影をその場に残すほどの勢いで僕は駆け出した。




 走る、走る。

 夜の町を僕は走る。

 行くべき場所を目指して。

 わき目も振らず。

 ただたどりつくべき場所を目指して。

 僕は走る。




『本来、夜属という存在は危うい境界線上に立っているようなものなのです。それが一度でもケモノとして堕ちてしまった場合は、まず戻ることはできません。ケモノとなった夜属は無差別に人を襲うようになり、夜属の全体を危険にさらします』


 だから、安土さんのような存在もある。

 忌み嫌われながらも、必要悪として存在する。


 ゴオゴオと、耳元を風鳴りが吹き抜ける。

 屋根を蹴り、電柱を次々と渡り、月のない夜の町を僕は走り抜ける。

 夜の町の奏でる絡みつくようなノイズを掻き分けて前へ前へと足を踏み出す。

 速く、もっと速く。

 世界が後ろへと流れていく。


『人穴を抜けるときには、三つのことに気をつけてくださいまし。

 ひとつは、けして、中でものを口にしないこと。

 ひとつは、けして、後ろを振り返らないこと。

 最後は、ヤマノカミ様に呑まれてしまわないことです』


 最後の一つは、気をつけて何とかなることなんだろうか。


 ――いや。


 何とかする。

 必ず。

 僕が、必ず。


 下草を掻き分け、木々の間をすり抜ける。

 蔦を掴み、岩に爪をかけ、飛鳥のように。

 速く。

 もっと速く。

 前足を地面について力いっぱい蹴りつける。

 一匹の獣となって暗い夜の森の中を駆け抜ける。

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