第2話 10月4日 人穴1

 獣臭のする荒い息を吐きながら、僕はゆっくりと足を止めた。

 夜更けの秋山の空気が、湯気の立つ身体を冷ましていく。ひとつ、ぶるりと震える。

『そこ』は、僕が夜属として正式に迎え入れられた場所だった。


 見上げれば、満天のこぼれ落ちてきそうな星月夜がある。

 その星々を喰らう、そびえ立つ闇。


 ……いや。

 闇に沈み影と化した、巨岩。

 磐座――ヤマノカミが宿るとされている場所。


 夜属として覚醒したものは、この場所にてお披露目の儀式を受ける。

 僕のときは、先輩が各務かがみの巫女として舞を奉納してくれた。

 そうして、僕は夜属へ仲間入りを許された。


 あの日のことを思い出す。

 銀光を浴びながら、うすぎぬをまとって舞う美空先輩の姿はこの世のものではないかのように美しかった。

 二つの世界を映し出す鏡を守り続けてきた各務の巫女の舞は、ここにもうひとつの世界を確かに映し出してみせた。


 視線。

 ヒトではない。

 ヒトであるはずのない。

 僕をじっと見つめる。

 視線。


 その時、アレは確かに居た。

 それは美空先輩の舞によって呼び寄せられたものなのかどうかはわからない。もしかしたら、あの場の真の主人公はそのナニカだったのかもしれない。


 人ではなく、夜属でもなく、もっと異なるナニカが確かにそこにいた。

 ナニカの放つ気配が確かなものになったとき、美空先輩の様子が変わった。

 神憑りとなった。


 そこは――


 ――ヒトアナ。


 磐座の深奥。

 ヤマノカミのいまします――


 息が、整った。

 僕の心臓の正確な鼓動が聞こえる。

 聞こえすぎる。

 虫の音も、風音も聞こえないのに。

 木々の葉擦れも、息を潜める動物たちの呼吸も。

 聞こえるものは唯、自分の心臓の音と、あまりの静寂がさそう甲高い耳鳴り。

 それはまるで、世界そのものが何者かに怯えているかのような。


 鼓動の音が大きくなる。

 耳鳴が耳を圧する。

 視界が狭くなる。

 世界が沈む。

 闇へと。


「怖いか?」


 耳鳴が止んだ。

 錆びた鐘のような、低く重い、男の声。


「恐ろしいか? この場所が? 狼のお前にも?」


 気付けなかった。深い緑の闇の中にたたずむその人を僕は気に留めることもできなかった。


「梨田……さん」


 闇に溶け込むようなボロボロの着流し。ザンバラの髪の下に覗く隻眼だけが僕を射抜くように闇に白い。

 美空先輩の師。

 僕を……待っていた?


「各務の巫女は、その奥よ」


 その一つだけの視線が磐座へと向けられる。黒々とした、巨岩の中腹へ。

 巨岩の下寄り、大人の背丈くらいの高さの場所にポッカリと、そこだけ切り取られたような暗闇が口を開けている。

 暗い、暗い、狼の夜目にも見通せない。

 深くて、昏い、穴。


 ざわざわと得体の知れないものが皮膚の上を這いまわる感覚。

 あのときに感じたものと同じ気配。

 ヒトではない、ナニカがその奥にいるのが本能でわかる。

 わかるのに、視ることができない。

 僕の狼の眼を持ってさえ。

 今にもそのナニカが、穴から這い出してくる錯覚が襲う。


「怖いか?」


 再び、同じ問い。


「……怖いです」


 絞り出すように、言った。


 ――コワイ。


 まだ向こうの世界にいた頃に感じた、闇に対する根元的な恐怖。

 いま感じているのものは、懐かしささえ覚えるそれと同じ感覚。

 膝が、震える。

 歯が鳴らないのは、単にこの人を前にした意地に過ぎない。


 だけど梨田さんは、笑った。

 決して、蔑みではなく。


「お主は狩人だ」


 決して、哀れみでもなく。


「そして恐怖は、狩人の同胞はらからよ」


 まるで愛弟子を見るように。


「恐怖を忘れた狩人は、獲物の牙に倒れ」


 まるで息子を見るように。


「恐怖に呑まれた狩人は、獲物になる」


 そして、口許の笑みが消える。


「恐怖とは、うまく付き合え。決して忘れるな。決して呑まれるな。恐怖は容易に、お主を黄泉よみへと引きずり込む死神へと変わる」


 気がつくと、震えが止まっていた。

 まだ、怖い。

 でも、もう進める。


「美空先輩が入ったのは、どのくらい前ですか?」


「ヤマノカミについては聞かんのか?」


「正体は誰も知らないんでしょう?」


「ヤマノカミは、山ノ神よ」


 どういうことだろう。


「山ノ神だ。異界より来たりて贄を求め、人界に幸をもたらすマロウド神よ。人が歓迎し、追い返してきた荒神よ」

「贄とは神に饗する食物のことだ。そして生贄とは供儀。カミにささげられしもの」

「贄となる動物。人穴に追いやられるケモノとはつまり」

「その、生贄のことよ」

「……急げ。ぬしは、〈銀〉とつがいよ」


 岩に手をかけ、穴の入り口へと身を引き上げた。

 星明りにかすかに照らし出された内部は、壁も床も、すべてが滑らかだ。

 人の手がかかったような滑らかさではなく、流水に何千年何万年も削られた硬石の滑らかさ。

 ここは峰の頂だ。瀬川は谷へと降りなければ存在しない。

 こんなものは、りえない。


 冷たい風が一陣、ゆるりと穴の奥から吹き上がってきた。

 穴は斜めに降っている。

 深い。

 先は見えない。

 曲がりくねっているのか、ただまっすぐに降っているのか、それさえも。


 得体の知れない恐怖に身体がすくむ。

 でも。

 この闇の奥底に美空先輩がいる。

 ならば僕は行かなければならない。

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