第3話 10月4日 人穴2

 滑らないように姿勢を低く。迷わないように右手で壁に触れながら、恐る恐る足を踏み入れる。壁はぞくりとするほど冷たかった。冷気が腕をつたい、身体の芯にまで伝わってくる。


 数歩進んだ途端に星明りさえ届かなくなる。

 暗闇がまるで絡みつくかのように僕を包み込むのがわかる。それは、あたかも意思を持った存在であるかのようだった。

 一歩足を踏み出すだけで、ありったけの勇気を振り絞らなければならない。


 そして、闇。

 何のよすがもない、一切の闇。

 タールのように黒く、まといつく闇。


 暗い森で生きてきた存在の人狼は、暗闇を見通すことができる。

 数々のイルミネーションによって夜でも光あふれる現代であっても、闇はこの世界に確実に存在している。けれど、その闇の向こうにあるものを人狼は視ることができる。

 なのに、この暗い空間は見ることができない。まるで目隠しをされてしまったかのようだった。


 さらに数歩。

 足音を殺し、そろりそろりと坂道を下っていく。

 四方の闇がまるで押し迫ってくるかのようで、ひどく落ち着かない。


 見えないということがこれだけの恐怖をもたらすものだなんて知らなかった。いや、ヒトであったときには感じていたのだろうけど、夜属として目覚めてからはそんなことを意識したことはなかっただけのことだ。


 闇が、僕を押し包む。

 ヒトを超える能力を持つことに、僕はいつの間にか慣れてしまっていたのかもしれない。


 暗闇を見通す、目。

 何者の息吹も聞き逃さない、耳。

 かつて神と呼ばれた力に慣れ過ぎていた。


 この闇は見通せない。

 この闇からは何も聞こえない。

 目を、耳を、闇がふさいでいる。

 まるで幼子のように、僕は闇に恐怖する。

 たった一歩を踏み出すことすらできなくなってしまう。

 パニックを起こさないように気持ちを落ち着かせるだけで精一杯だった。


 自分の呼吸が乱れているのがわかっているのに、それをコントロールすることができない。

 気持ちを落ち着けて冷静になることは、何度も美空先輩に教えられてきたことのはずなのに、僕はそんなことすらできなくなってしまっていた。

 それだけの圧倒的なプレッシャーをこの暗闇から感じている。


 理解できないものへの畏れ。

 絶対的な恐怖。

 自分を超えるものへの畏怖。

 自分という存在がいかにちっぽけであるのかをいやでも思い知らされる。


 もしもこの壁に触れている右手の感覚がなくなってしまえば、僕は暗闇に飲み込まれて自分を見失ってしまうだろう。

 息をしているはずなのに、肺にまで空気が届いていないかのような感覚。浅くて早い呼吸を繰り返すけれど、一向に楽にならない。

 荒い呼吸音も闇に喰らい尽くされてしまうかのように自分の耳まで届かなかった。


 粘ついた、それでいて冷たい汗が背中を伝い落ちる。いやな汗が身体を濡らしている。

 額から伝い落ちる汗を左手でぬぐう。


 前を見ることができないのに視界を確保しようとするのは視覚に頼りすぎている証拠だ。

 人狼の感覚を信じなければならない。

 聴覚、嗅覚、触覚……いずれもヒトを超える。


 そう自分に言い聞かせているのに、忍び寄る恐怖に打ち勝つことができない。

 ひたりひたりと忍び寄る闇への畏れが僕の心をに乱れさせる。


 いけない。

 バラバラになりそうな感覚をかき集め、よりあげて、研ぎ澄まそうとする。


 闇の中、美空さんのことを考える。

 僕は彼女に殺されて、

 彼女に救われて、

 彼女に導かれ、

 彼岸ひがんの世界へと入った。

 僕を殺した人。

 僕を導いた人。

 僕の恋人であり。

 僕と殺し合った人。


 闇が針で刺すような寒さを伴い、肌から染み入ってくる。

 寒い。

 どうしようもなく寒い。


 右手の触れる壁も、足元の床も、まるですべてが不確かだと思わせんばかりの闇の色。

 まるで僕の心を一色に――暗い色に染めんかというように。

 ふと、この闇の中、僕がこの手にかけた人たちのことを考える。


 朝比奈水緒――僕の初めての女性ひと


 母さんを亡くして、この世界がどうしようもないガラクタばかりだと思っていたときに、世界を変えてくれた女性。

 彼女の存在が僕の中でどれだけ大きかったのかは失ったときに気が付いた。あれからしばらく、僕は恋愛をすることを放棄してしまったのだから。

 なくすことの怖さを教えてくれた女性。


 日比谷薫子――名も知らなかった少女。


 忌として覚醒し、忌として人間を食らっていた。それはおそらくとても純粋で、生命体としてはごく当たり前のことだったのかもしれない。

 彼女のことはよく知らない。寂しい人であったことはあとで知った。もしも知らなければ、僕はもっと冷酷なままでいられたのだろうか。


 杣木千夏――沙雪さんのお姉さん。


 ヒトであった頃に会ったことはないけれど、妹の沙雪さんや、幼馴染の関川さんの話し振りからおおよその想像はできる。

 明るくて、前向きで、しなやかで、元気な人。多分、一緒にいるだけで楽しくなれるような人だったのだろう。

 きっと、最期まで沙雪さんのことを気にかけていたやさしい人であったのだと思う。


 百道裕吾――期待してくれた先輩。


 勉強も運動もそつなくこなして、頼りになって、行動力があって、それでいて、他人の気持ちを理解することもできて。

 もしかしたら、僕は人間として百道先輩に到底及ばないかもしれない。


 嘉上美星――妹みたいな娘。


 いつもいつもまっすぐな瞳で僕のことを見上げていた。きらきらとした瞳はどこまでも澄んでいて、眼差しは素直だった。

 瞳と同じく、心根もまっすぐで、とても清らかだった女の子。

 僕のことを「お兄ちゃん」と慕ってくれた、大好きな娘。


 佐倉綾乃――僕の先生。


 とても、先生らしくないひとだった。朝がどうしようもないほど弱くて、天然で、年上のお姉さんぶってはいたけれど、どこか放っておけないところがあった。

 あれだけ生徒と仲がよかった先生はいないかもしれない。

 それでも――忌であったことに変わりはない。それはすなわち――敵だということ。


 歩みは、どんどん遅くなる。

 一歩足を動かすにも、全身全霊をかけなければならない。

 僕の身体は、どうなったのだろう?

 風のように町を駆けたあの力はどこへいってしまったというのか?


 カラリと、小さな音がした。

 カラリ、カラリ、カラリ。

 音が転がっていく。


 底へ、底へ。

 深い場所へ。

 昏い場所へ。

 どこまでも。

 どこまでも。

 転がっていく。


 気づくと、僕は震えていた。

 今のは僕のつま先が蹴飛ばした小石が転がる音。

 それだけなのに、全身の震えが止まらない。


 ――ダレカガ

 ――見テイル


 なんだ?

 なんだ、今の音は?

 獣のうなり声?

 それにしては意思を感じた。


 臭い。

 獣臭。

 僕のモノではない、獣の気配。

 四方の闇から迫ってくる圧倒的なプレッシャー。


 寒い。

 現実を伝える右手の壁も、足元の床も、不安定に揺れているような気がする。

 それとも、これは僕の震えだろうか?


 今、確実に、僕以外のものがここにいる。

 美空先輩の気配ではない。

 もっと異質なもの。

 おそらく、ヒトでも、夜属でもないものだ。


 ――ナニカガ

 ――来テイル


 知らず、膝が震える。

 空いた左手で膝を押さえ込もうとしたけれど、震えを止めることはできなかった。

 膝から腰、腰から背中、背中から全身へ。

 震えを止めることができない。

 歯の根が合わない。

 声すら出ない。


 気配がする。

 前から。

 下から。

 左から。

 後ろから。

 上から。

 右から。

 ナニカの気配が満ちている。

 圧倒的なまでの存在が。


 両手で自分の肩を抱く。

 この世界から消えてしまわないように。

 この震えを止めるために。


 恐怖。

 畏れ。

 怯え。

 それだけが僕の心を塗りつぶしていく。

 すべてを黒く、禍禍しい闇の色で塗りつぶす。

 もう、立っているのか、座っているのか、倒れているのかすらわからない。


 こんなところに美空さんはいるのか。

 たった独りで。


                   僕は。


 誰も救いの手を差し伸べず。

 彼女の悲しみも、苦しみも知らないで。


               僕は助けたい。


 ただ、この恐怖と無言で戦っているのか。

 どうして彼女だけが。


             僕にできることは。


 夜の空色をした長い髪。

 月の輝きを映す白い肌。

 氷柱の冷たさを宿した瞳。

 感情を表に出さない貌。

 けれど。

 僕は知っている。

 美空さんが、本当はとても優しいということを。


「るおおおおおおおぉぉぉぉぉ――――ん!!」


 はらの底から声を絞り出す。

 ビリビリと周囲の闇が震えているのがわかる。

 その震えは僕の恐怖のためではない。

 僕のこの声が闇を震わせている。


「うぅおおおおおおおぉぉぉぉぉ―――ん!!」


 こんなところで、足踏みなんてしていられない。

 僕は、美空さんのもとへ行く。

 彼女を助け出してみせる。

 もう、迷わない。

 一歩を踏み出していける。

 共に手を取りあって、この世界を。

 歩いていける。

 歩いていく――。

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