第2話 8月19日 朋輩[三人称視点]

「掛巻くも綾に畏き天津渦々志八奈芸大神を始めて大己貫大神、少彦名大神の大前に嘉上社の宮司の一女〈銀〉七世美空伊、謹み畏みも白さく――」


 祭文さいもんは続いていた。

 祝詞のりとを、絶えることなく歌い続けた。


「死んでおるのよ」


 古狼の梨田蓬は、宗哉が現れるまでは、美空のもっとも近くにいる人狼だった。


「お主の仔は、鉛弾で己がすでに果てたと思うておるのよ。今のこの姿でないと存命できぬと思うておるのだろうて」


「故に、ヒトに戻れないと?」


紙帯かみおび」とは、即ち「神帯び」であり、それ自体が神性を帯びる。ヒトオオカミを、その神の帯びが戒めている。


 息吹払ぶきばらい――吐息を吹きかけて清める穢れ払いのこと――により清めた和紙に、松煙の和墨で秘詞ひめことばを書した紙帯が、文字通り宗哉の全身をくまなく覆っている。


 そのような有様の宗哉は、負傷が原因の高熱で、長く短く熟寝うまいを繰り返していた。

 だが、それは小さな問題だった。

 そのような有様になった、せざるを得なかった訳がある。


 宗哉は、加賀瀬川ダムで〈伽藍〉の手の者と牙を交えたあの戦いが済んだにもかかわらず、ヒトの姿に戻らなかった。

 ヒトオオカミの姿のまま、元に戻れなくなってしまっていたのだ。


 頭部の損傷が激しいために能力が混乱しているのかもしれないと額辺家の宿曜あいぎょくは述べたが、美空はそう思っていなかった。


 もともと、宗哉の中にいたケモノが強すぎたことが原因ではないだろうか。ヒトの部分を圧倒してしまうほどに。

 美空はそう考えていた。

 ゆえに、いつかはこんな時が来るかも知れないと予測はしていたのだ。


「この者は筋者ではない鬼子おにご故、我らの定法は通じぬものやも知れぬな」


 考えられることだった。


「いずれにせよだ、〈銀〉よ。人狼――ヒトオオカミとはいわばヒトの、オオカミをつなぎ止めしの意。ヒトの側面が弱れば、オオカミを繋ぎ、御すことは能わぬ」


「なれば、何と?」


「掟よ、七世。今代〈銀〉の主が、わからぬはずはあるまい」


 ケモノに堕ちた夜属――人狼は殺すより他にない。己を失い、同胞を傷つけ、ヒトを喰らう前に。


 今日に至るまで連綿と守られ続けられてきた掟であり、今に通じる正義だった。

 ケモノを喰ろうていればオオカミも猟師に殺されることはない。しかしヒトを喰ろうたオオカミならばもはや、殺すより他にはない。




     ――宗哉くんを、殺す――




「――――」


 先刻、意識が戻ったときに宗哉は美空に何かを伝えようとしていた。だが、ヒトオオカミの身で人語を思うように操ることはできないため、明瞭な言葉とはならなかった。

 だが、美空は宗哉が何を言いたいのかがわかったような気がしていた。


 ――僕は、どうなるんですか?


 不安、焦燥、焦り……自分が自分ではなくなっていく感覚への恐怖。


 無論、それが正しいとは限らない。

 美空は宗哉とは違い、天耳てんじの能力を持たない。故に、相手の心の動きが奏でる音を聴き取り理解することはできない。

 勝手な思い込みに過ぎないのかもしれない。


 だが、少なくとも宗哉の黒い瞳に濁りの色はなかった。感情の乱れは感じさせなかった。

 ――そのことが、少し寂しい。


「大丈夫よ。少し、肉体の損傷が激しくて戸惑っているだけだから。しばらく寝ていればよくなるわ。御鎮め行事を執り行っているしね」


 そんな美空の気休めめいた言葉に安心したのか、宗哉はゆっくりと目を閉じた。

 そうしてまた眠りに落ちたようだ。


 その姿は、まるで異国の木乃伊ミイラを思い出させた。

 目といわず耳といわず、あますところなく縦横無尽にがんじがらめとなった姿は、まさかこれが宗哉とは思いも寄らぬほどの、産まれもつかない何かだった。


 いや、たとえこの戒めを解いたとしても、どうだろう。

 内より現れるのは、産みの親すら見分けも付かない、ヒトとケモノの交じり合った姿をした奇怪な『何か』なのだ。


 ――いや。


 美空は首を振った。


 ――あのなら見分けるのかも知れない。


 事実、あの時――

 あの時。

 あの娘は見分けてのけた。


 ヒトは夜を見通せない。

 見通せないから夜なのだ。

 夜の住人を目撃したからといって、ほとんどの場合は目撃したことを記憶できない。いや、目撃することすらできない。


 雪が積もっているとか、紅葉が進んできたとか、変化した情報は記憶して再生できる。


 目から入った情報を脳が整理するため起こる現象であり、実は脳は目撃情報のほとんどを記録していることがわかっている。そのため、催眠術などで誘導すれば意識のある時には思い出せなかった情報も思い出せたりすることがある。


 それとよく似ている。

 ヒトは夜属を目撃したとしても、見なかったものとして脳の中を整理してしまう。


「見ているのに見なかったこととしてファイルを最適化してしまうんですね」


 前に説明した時に宗哉がそう言って理解していたのを思い出す。その理解の仕方は、美空にはまったく理解不能のものであったが。


「古の法定のりさだめに従い、封じ込め給いて速やかに――」


 しかし極まれに、ヒトの間にも夜を見通せる者が現れることがある。


 もともと夜属の血筋であった美空の父や、妹である美星には少なからずその素養がある。事実、美空を夜属へ預けたのは父であったのだから。

 額辺の下屋敷に暮らしている者たちも似たようなものなのだろう。


 もしかしたら、三輪つぐみにも、夜属の血が流れているのだろうか?

 しかし、額辺の屋敷の話だとそのような可能性は低いとのことだった。

 そうなると、彼女も鬼子のようなものなのかもしれない。


 美空にはわからなかった。

 彼女がケモノの姿となった宗哉を一目でそれと見分け、宗哉のケモノを鎮めてのけたという事実があるのみだ。

 美空に、同族である七世〈銀〉にすら成せぬことを成したという事実が。


 いや。

 わからなくはなかった。

 美空にはわかっていた。

 自分では、このケモノに勝てないことは。

 彼女つぐみが勝てたこの強大な力を持つケモノに、自分みそらでは勝てない――


「この御子狭山宗哉を癒し給い幸い給えと乞祈奉らくと申す――」


 だから、あの時――


 あの時に、

  わたしは、

   宗哉くんを、

    行くに任せた。


 わかっていたからだ。

 ああなることは初めからわかっていた――


 いつしか、祝詞は、止んでいた。


「どうして? どうして三輪つぐみなの?」


 答えがあるはずはない。

 宗哉は熱があって昏々と眠り続けて、意識のあることは希だった。

 問いを聞く者がいないから問うている。

 答えを欲してなどいないから問うている。


「どうしてなの、宗哉くん」


 あの時のように。

 三輪つぐみと宗哉の、あの時のように。


「わたしでは、いけないの?」


 もし、あの時のように、したなら――

 できたならどうなっていただろうか。

 三輪つぐみのようにできたのか。

 美空が、知ることはなかった。


「――、――……」


 かすかなうめき声。

 そのわずかな呼気の中に彼女つぐみの名前があるのを理解した。


 宗哉が、その名を呼んだから。

 それは熱にうなされただけのことかもしれない。だが、たしかに宗哉はその名を呼んだ。


 恐怖にも似た感情をどうすることもできず、美空はずるずると蒲団から重い身体を引きずりながら離れる。

 とんという感触が背中にあるまで、美空ははいずり続けた。わけのわからない感情を心に抱えたままに。


 ――ちがう。


 美空はいやいやと首を振る。


 ちがう。

 ちがうっ。

 ちがう!

 ちがうっ!!


 わたしは、三輪つぐみではない。

 わたしは、七世〈銀〉――嘉上美空だ。

 だからわたしが三輪つぐみになれることはない。

 代わりを務めることもない。


 だから、どうしたというのか。

 初めから、闇に独り。

 これからもそれが続くだけの話なのだ。


 いつかわたしは、宗哉くんを殺さなければならないかも知れない。


 ――それがどうしたというのか。


 絶叫をその奥底に封じ込め、美空の仮面が一人つぶやく。


 初めから夜に独りなら、再び独りの夜に戻るだけのこと。

 他者を殺せるということは、己もまた殺せるということだ。


 ――わたしは、殺せる。


 涙など出なかった。

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