第9話 7月28日 石と化すもの
「結構、深いんですね」
「足下に気をつけて」
渓流の水は、思っていたよりも驚くほど深い。
ただ、石はまだそんなに丸くなってないのもあるからサンダルを履いていた方が安全かも知れない。
それに流れる水はひんやりとして、ここまで歩いてきた時の汗を気持ちよく流してくれる。長く入っていると風邪をひくかも知れないけど、水浴び程度だったらもってこいだろう。
どこまでもどこまでも、澄んだ水だった。
銭湯とかよりもずっと深くて、泳ぎやすい。
縦横に泳ぐにはちょっと川幅が足りないけど、水がここまで澄んでいたら目を開いてもまったく問題はない。
中学の頃ほど頻繁ではないけど、水泳の授業は一応ある。でもプールで泳ぐのと川で泳ぐのとでは開放感が違うものだ。
「なんだ、これ?」
石の中にうっすらと貝がらのカタチの模様。
「へー、いいもの見つけたじゃないか。それは貝の化石だよ」
後ろから覗き込んできたのは黛だった。
「化石? こんな山奥の川の中にも化石って転がってるものなのか?」
「そう驚くほどのものでもないさ。この上流にはきっとこの類の化石が入った地層があるんだよ」
「それは川の貝の化石じゃないわね」
忘れてはいけない。実は綾乃ちゃんだって教師なのだ。もっとも、物理であって地学の先生ではないんだけど。
物理には観測系と理論系っていう区別があるらしく、観測系というのは別に数学ができなくても致命的ではないらしい。三角関数が解けないのにノーベル賞を取った学者もいるって話を綾乃ちゃんの授業で聞いたことがある。
ちなみに、黛も変なことに詳しい部分があったりする。それもとんでもない方向に有識者の片鱗を見せたりするので侮れない。
「この辺りは火山帯でもともとは海だったから、それは海の貝のはずよ」
「水流で地盤が崩れて、それでここまで流れてきたんでしょうね」
「あ、それ授業で聞いたことあります」
思わぬ発掘に盛り上がることひとしきりだ。
それにしてもこういうのにやたら強そうな委員長が現れないのはどういうことだろう。
おまけに、つぐみと美空先輩は何処でどうしてるんだ?
もっとも、先輩は放っておいても問題はないと思うけど、むしろ心配なのはつぐみのほうだ。誰も預かり知らぬところで暴走をしている可能性がないとは言えない。
辺りを見回すと……いた。
なぜだか、つぐみと先輩が一緒だった。
何をしているんだろう。せっかくなのに泳がないのだろうか?
岩肌に腰をかけたつぐみと美空先輩。
二人の間には、空間以外の何ものも存在しない。
それにもかかわらず、開くとはなしに開いている空間。
赤の他人としたなら近すぎる。
知人として話をするなら遠すぎる。
そんな、微妙な距離。
「――がないんですか」
距離が空いているから、自然と小さな声になる。
それなりに周囲を憚るような声でも、人狼の僕には、聞こえてしまう。
「泳がないんですか」
と、つぐみは先輩に問う。
答えを欲している、というふうではない。
小さい声。しかし内緒にしようとか、聞こえないようにしようという風な声ではない。
泳がない、と先輩が答えたならそれで終わり。答えなくても問いを発したことを忘れてしまう。小さい声というより、気の入ってない声の、そんな問いだった。
「泳ぐのは、好きじゃないの」
意外にも美空先輩は応じた。
それも、自分のことを話した。
どうしてなのか、意図はわからない。或いは何の「つもり」もないのかも知れない。人狼として本来野生の美空先輩は、野山に入って気を安らいでいるのかも知れない。それだけのことかも知れない。
「あたしは、泳ぐの好きです」
つぐみがそう応じる。
会話とは思えないような会話だった。会話としたなら、あまりに互いの発する言葉と言葉の間が開きすぎていた。
「泳いでばっかでしたから。あたし、頭悪いし、他に能ないし」
「センパイ――」
「先輩は、宗哉と何か関係があるんですか?」
「宗哉は、何かを隠してる。先輩は知っていて、あたしは知らない」
「宗哉と、嘉上先輩は……」
「わたしは、泳いだことがほとんどないから」
「何か、とは何?」
「人は知らなければいいこともある」
「その方がその人のためになることもある」
「どうしてあなたが、それを知りたがるの?」
「どうして、そんなに知りたがるの?」
僕は、流れを歩んで進んだ。
つぐみと美空先輩のいる方へ。二人に、僕が近づくとわかるように。
真っ直ぐに、川の流れを横切って、最短距離を近づく。
「二人とも、泳がないんですか?」
正々堂々としているのは格好だけだ。
努めて明るくしたのは、声だけだ。
僕は、卑怯だった。
「宗哉……」
僕は、僕の前でつぐみがこれ以上、その話題に触れられないことを知っている。つぐみが問わなければ、美空先輩がそれ以上の話をしないことを知っている。
知っていて、そのことを利用しようとしている。
度し難いほど、卑怯だ。
「水、冷たいですから気をつけて」
手を差し伸べる。
入ってくるのが当たり前だというふうに言った。
声の調子が上手くコントロールできたかどうか、少し自信がない。
さらさら、と渓流がせせらぐ。
川面に、木漏れ日が踊る。
絶え間なく渓流の営み続ける中で、僕たちだけが黙ったままだった。
「泳ぎましょう、先輩」
耐えられなくなったのはつぐみだった。
「わたしは……」
「泳ぎ、教えますから」
「……あ」
美空先輩は驚いたようだった。
多分、そう言われた美空先輩当人以上に、僕は驚いていた。
その僕よりもっと驚いていたのは、おそらくは言った当人のつぐみだろう。
どうしてそんなことを言われるのか。
どうしてそんなことを言うのか。
どうしてそんなことを言い出したかわからない。
言った当人がわからないことを、如何に美空先輩でも理解できようはずがない。
「教えますから。泳ぎ」
美空先輩は僕のひとつ上の先輩。つまり僕と同級生のつぐみにとっても、ひとつ上の先輩に当たる。
考えてみれば失礼なことだ。先輩にものを教えてやろうなんて、えらそうなことを口走るつぐみではない。ああ見えても中高通じて体育会系で心身ともに鍛えられてきたのだから。
先輩も失礼な奴だと思ったかも知れない。本音のところが見とれないのはいつもの調子だ。
誘われるままに、先輩は流れる水に入った。
水の冷たさに、ほんの一瞬の躊躇い。
それから、思わぬ深さに、もう一度の躊躇い。
そうして躊躇いながら、戸惑いながら美空先輩は渓流に立った。
まるでそれは、生まれて始めて、二本の足で立っていることに気付いた赤ん坊のように。
「きれい……」
つぐみの感想だった。
僕も異論はない。
異論の差し挟みようがない。
「きっと楽しいです」
つぐみが言う。
「泳ぐのは、とても楽しいですから」
パシャ、と川面が跳ねて、銀の鱗を持つ魚が水面を躍った。
「戻りたい……」
――?
今、声が。
誰かの声が聴こえた。
一瞬、僕が声に出してしまったのかと思ったけれど、そうではない。明らかに僕の声ではない。
何処から――?
辺りを見回して、僕は見つけた。
タオルが真白く委員長を覆っていた。
つぐみの身を固く覆っていたタオルが、今は委員長を包み隠している。
ふかふかのタオルに覆われて、まるで、泡から生まれたっていうギリシャの女神みたいなその委員長の背中は、僕たちの来た道を、黙って遠ざかっていった。
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