第8話 9月20日 美空と一緒に登校2
忠犬ハチ公みたいに迎えにきた先輩に引きずられながら登校した。
昨日は早過ぎた。もの寂しい教室でぽつんと座っていると世界全部から忘れられたような気になる。
昨日の帰り道にそんな気分について婉曲遠まわしに告白したのをわかってくれたらしい。先輩が来たのは昨日より30分ほど遅かった。言ってみるものである。人間、簡単に諦めてはいけない。
……後悔した。
登校にまともな時間ということは生徒の部活ラッシュとかち合ってしまうということだ。
周囲の物体など先輩にとってはカボチャや大根と同じらしく、僕だけが苦虫をまとめてかみ潰し、苦笑とひやかしと興味本位と哀悼の意と憐れみと畏敬の下、腕を掴まれたまま突っ切って行く。
「わたし、部室にいくから」
「僕は教室にあがりますから」
いつもと同じに別れて校舎に入ると、そこはいよいよいつもと違う湾岸埠頭のような有様だった。
色とりどりの紙テープが転がっている。えたいの知れない形のダンボールが重なっている。椅子と机が廊下の隅に積み上げられている。七色の看板とスダレが一まとめにして置いてある。
朝早くだというのに先輩の命令と義理人情で駆り出された生徒たちが大勢、準備に奔走している。
祭の時間だ。
空気の一つぶまで特別な空間だ。
特別な物語はもう始まっているのだ。
前触れなく襲ってきた。
身構える余地も、心の準備をする暇も与えてくれず、階段の踊り場まであと三歩のところで突然歌が駆けていった。
驚くより先に現れて、理解するより先に去っていく。ひどく身勝手な歌はわがままに聴こえてあっさり消えた。
それは歌声だ。
世界、というものが歌うとするならばだけど。
足が止まった。
止めたくて止めたわけじゃない。胸が悪くなる。吐き気がする。唐突な目眩に視界が歪む。歌も歪んでいた。ついでに割れていた。壊れたスピーカーのボリュームをめいっぱいにして耳もとでハウリングさせた音を何百倍かすれば近いかもしれない。
階段の落差から転がり落ちそうになる身体を手すりにつかまって何とか支える。
身体がまるで他人のようによそよそしくなり、言うことをきかない。指先一つ動かすだけで疲労する。足を踏ん張るだけで息が切れる。
手すりのある壁に身体をもたれさせて荒い息を吐いていると、上へ下へ通りすぎる生徒たちが興味本位に見つめてくるが、手を貸してくれるほど奇特な奴は誰もいない。
とりあえず教室へ。
そう考えても足はさっぱり進んでくれない。
どれだけの間か、そうしていた。
どれだけかわからないけれどHRのチャイムが鳴る前にめまいが収まった。
「…………なんなんだよ、もう」
何の前触れかさっぱりわからず、
わからないなりに警戒して深呼吸してしつこく残った胸やけと吐き気を追い出して、自分の足なのに死体の足でも吊り上げるようにしながら階段を一歩一歩上って行く。
教室で最初に委員長の声を聞いた。
携帯をとりだして、あわててアドレスを探していて、何故かそれに失敗して、ときどき軋む教壇側の扉を空けて走り出そうとして、やっぱりそれをやめようとしている委員長が、教室に入るところで正面衝突みたいなニアミス気味にかすめていく。
『いずみさんが――――』
委員長がはや口にまくし立てる。言葉は甲高く舌足らずな音に変わり、それ以上の意味にならずに通過する。頭のどこかにある音を意味に変換する機能が麻痺したように、意味を失ったただの音が右から左へ遠くなる
教室で最初に委員長の顔を見た。
携帯をとりだして、あわててアドレスを探していて、何故かそれに失敗して、ときどき軋む教壇側の扉を空けて走り出そうとして、やっぱりそれをやめようとしている委員長と、教室に入るところでほとんど正面衝突みたいにニアミスする。
デジャヴだ、と思った。
でも、デジャヴではない。僕はこの光景を知っている。
知らずに『聴いて』いたらしい。
委員長がはや口にまくし立てる。舞台の再演を見るように結果のわかる台詞を、甲高く舌足らずに言葉にする。聞くまでもなく知っている言葉が意識の表面を滑って転がり落ちていく。
「――狭山君っ、いま、」
委員長は、こちらを見るなり上着の肩を引っつかんだ。
「どうしたって、委員長」
取り乱した委員長は僕の言葉を聞きもせず、真っ青な顔で口走ろうとして声にできずに息を飲む。
「――先生、連絡がっ、い、」
「どうしたって?」
「いずみが――」
その先は聞くまでもないし訊くまでもない。
見た目は落ちついていた、と思う。
狼狽するより困惑し、困惑するより混乱した僕の頭は慌てるという回路を勝手にすっとばしてくれていて、自分で予想したより平静な声が出た。
「落ちついて委員長。深呼吸した方がいいよ。酸素が足りないと頭が働かないんだ、知ってるだろ。落ちついた? 落ちついたらもう一度言って、お願いだから。ゆっくり、ね」
間違いであれ、と思った。
そんなはずがないことを知っていた。
「――いずみ、さん、が、」
和泉が。
「――くるま、に――れて――」
はねられて。
ちくりと消えたはずの指先の傷が痛む。
失せたはずの目眩がぶり返す。
忘れていたことがある。
忘れたつもりになっていたことがある。
僕は狼だ。
ここは狩場だ。
そして、牙をかけた獲物は逃げたままだ。
「――ちょ、狭山くんどこいくの?!」
「気分が悪いから早退。先生に……いや、言わなくてもいいや」
教室を出る。後ろで予鈴が鳴る。教室に駆け込むクラスメイトの横を通過する。奇異の視線も「予鈴鳴ったぞ、狭山」と呼ぶ声も背中で受けた。
あっという間に廊下は無人の場所になった。
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