第7話 9月19日 ウサギ小屋の事件
昼休みになる。
暦を巻き戻したみたいな夏日よりの昼休み、祭りの前の昼休み、意味もなく特別なのだとみんなが信じ込んでいる昼休みだ。
世間というのはみんなで作る物語で、物語というのは不要な要素を排斥しなければ成り立たない。
萌え萌えのラブコメにマジメで殺人鬼なサイコさんはいらないし、リアルな戦争ものに素手でロボットを叩きのめすお師匠さまは必要ない。
例外もあるけど、普通はそうだ。
小数点は四捨五入されて整数になる。
どうやら僕は四捨五入されるクチらしい。
「そういえば一年の喫茶店なんだけど、女子がメイドの格好をするって噂で……」
「二日目の三時から体育館で吹奏楽部が……」
「聞いてくれよ、ウチの部長ったらとんでもないこと言いはじめて……」
「前日の泊まり込みは禁止って話聞いた? 学校も横暴よね。それで当日おじゃんになったら……」
雑多な教室の中で騒ぎから孤立して物思いにふけっていると、興奮から隔離され、高揚から乖離された自分の姿を否応なしに感づいてしまう。
机に頬杖をついて窓の外に目を向ける。
こういう時にはいつだって馬鹿話に付き合ってくれた黛とも話すことができない。親友だった存在がものすごく遠い。
ぽっかりと胸の奥に穴が空いてしまったかのようだった。
つまるところは、お祭り前夜のハイな空気に僕はなじめず浮き上がっていた。
どだい無理というものだ。
殺したり殺されたり死にかけたり死んでから生き返ったり手足の一本どころか内蔵までぶちまけるような目にあったりしているのだから。
それでも無条件にお祭りでは浮かれるべきだというのだろうか。
雑多な教室では雑多な音がする。
やる気がおきないので耳を澄ませる。
僕にしか聞こえない音を聴いている。
縦糸が人だ。横糸が時間だ。
張り巡らされた糸をかき鳴らせば世界という幻想が現象する。世界はいつも即効で即興で即物な物語を歌っている。
世界の王は無遠慮と無作為と無計画で、楽譜のない再現できないたった一度の歌劇を伏線も幕引きもなく演じ続ける。
結局。
聞こえない音を聴く、というのはそれなりに大層に思えるかもしれないけれど、感覚器がもう一つあるというそれだけにすぎない。
蛇は赤外線を感知する。
コウモリは超音波で探知する。
同じことだ。
この感覚は口で説明するのが難しい。
マンボウに飛び方を教えるようなものだろう。
僕は音を聴く。
それは耳で聞く音とは異なる。
音、と名付けるのはどこまでも不正確だ。
でも飛ぶのは鳥だ、というのくらいには正確だ。
第六知覚は、多層的に多重的に多角的に事象を認識する。この感覚を表現する言葉として最も近いのが〈音〉であり「聴こえる」なだけだ。
ふと、思いを馳せる。
聴こえる世界。ありえない摂理。まだ起こっていない事象。倒置法の因果。歪んだ時系列。確率論の未来。決定論の明日。どこかにあるあらすじ。どこにもない台本。存在する非在。非在しない存在。
…………頭が痛くなってやめた。
いつまでもくよくよしていても仕方がない。
今はお昼。午後の活動のためにエネルギーを補給する時だった。
僕は不出来な弁当の包みを提げて廊下に出る。
今日は暑い日だ。お弁当を広げるのにはまあいい日だろう。
馬肥ゆる秋というには少々相応しくない陽気の下へ、僕は歩いていった。
廊下に出ると和泉がいた。
「どうしたんだい、こんな時間に珍しい。いつもの指定席はどうしたのさ」
いつも隙だらけみたいな格好のクセに、実のところ隙のない和泉は、同い年のくせに三十年くらい長く生きてきたようなやっぱり隙のない顔で僕を眺める。左の眉だけが、ほとんど気がつかないくらいについとあがった。
珍しいことだ。
学校の屋上で毎日平気で一服着ける不良高校生の分際で、見事に達観し、無闇に超克し、止めどなく突き抜けたような和泉には滅多にないことながら、どうやら機嫌が悪いらしい。
「……どうしたんだよ?」
「ウサギだ」
「ウサギ?」
怪訝そうに眉をひそめる。
今朝のことを思い出して更に表情を曇らせた。指先に巻かれた絆創膏の下で、もうすっかり跡形もないはずの噛まれた傷がちくりと痛んだ気がする。
「死んだ」
「…………ぇ?」
「飼育部で飼っていたのだが、殺された」
そもそも飼育部ってなんなんだよっという突っ込みは場違いすぎて言葉にできなかった。
殺された、という台詞が鼓膜から入って反対へ抜ける。言葉の断片を理解しても意味自体を理解できずに立ちつくす。
殺された。
僕が呟く。和泉が今度は右の眉をあげる。
怒っている。
和泉が怒っていることを理解できても、話を理解するにはさらに一分間が必要だった。
殺された。
ようやく意味を理解する。理解して混乱する。
傷がまたちくりと痛んだ気がする。さっきとは違って、化膿して疼くように。
「…………僕、じゃないよ」
「当り前だ」
和泉は露骨に目を細める。
「それとも、狭山には生きたウサギを食べるような趣味でもあるのか」
「…………食べられてたのか?」
和泉は黙って小さくうなずいた。
「野犬か何かの仕業だと思う。小屋の金網が破れていた」
――金網が?
僕が今朝見た時にそんなことはなかった。
少なくとも野犬の入り込みそうな破れ目なんて見れば気がつくはずなのに、裏にも表にもそれらしい跡なんてどこにもなかった。
記憶はあいまいだから確実とは言えない。ひょっとしたら気がつかなかっただけで少し破れていたのかもしれない。そこから野犬が侵入した可能性だってないとはいえない。
イヤな話だと思う。僕が気がついていれば無事だったのかとも思う。
そんなことをいってもはじまらないし、起こったことに取り返しなんてつくはずもないし、責任を感じることなんてきっとない。後悔なんてのは結局ていのいい自己満足だ。それでも、やりきれない気持ち自体にウソはない。
美星ちゃん。
思う。
彼女は僕より傷つくだろう。きっと哀しむことだろう。もしかすると泣いてしまうかもしれない。目を真っ赤にして声を殺して一日中泣き続けることだってあるだろう。
「……できれば」
「うん?」
「この話、美星ちゃんに聞かせたくない」
「嘉上妹か。どうかしたか」
「今朝、一緒にウサギを見ていたから」
ああ、と察しのいい和泉は納得したらしい。
「そういえば、和泉」
「なんだ?」
「飼育部なんて本当にあったんだ」
「非公式だがアングラな活動をしているぞ」
それなら同好会ってつければいいのに、こういうところはいい加減な学校だ。
だいたいアングラな活動っていうのはどういう活動だろう。ゲリラで野良アオダイショウに餌でもやっているのか。
「詳しいんだね」
「飼育部だからな」
思わず無言で和泉を見つめる。
「……いや、その……和泉って、飼育部なんだ」
今朝の先輩にも匹敵するほど場違いだ。
なんというか常に一発しか使わないストイックなスナイパーが家に帰ると子犬を飼ってるっていうぐらいのノリだった。ジャン・レノあたりじゃなければ似合わない。
「お前は」
和泉が冷たく睨んでくる。
視線で人が殺せるものなら、僕は七の七乗回死んでもおつりが来るだろう。
「わたしが飼育部だと不満があるのか」
「い……いや、べつに、そんなこと……ないよ」
貴重な一日である。
こういう日もあるんだなあ、としか思えない。
朝からイロイロと、おまけに絶え間なく驚かされっぱなしだ。こんな顔で和泉に睨みつけられるのも、初めてのことだった。
「でも、そっか。……そうか」
「そうだ」
「そうかぁ、でも、それなら」
「うん」
「……残念だったね」
「そうだ」
しんみりとする。
中天から傾きかけた西日の熱さもどこかしら物寂しい。廊下はどこまでも他人事のように騒々しく、僕ら二人だけが遠い山並みが描く緑の稜線に視線を彷徨わせて黙っている。
異なる物語だ。
祭りから浮き上がった、最大公約数と違う、僕と和泉の小さな悲劇の物語だった。
名残のヒグラシが鳴いていた。
「宗哉くん」
心臓がとまる。
浸っていたぶん驚きが大きい。息を呑む。だらしないほど肩が跳ね上がる。悲鳴がもれるのを最後の一歩で踏みとどまる。
止まった心臓が動き出し、呼吸を整え、ようよう後ろを振り返った。
先輩がいた。
目立たないように深呼吸する。動悸を整え動揺を押し隠し、ようやくのことで口を開いた。
「先輩、どうしたんですか」
「…………」
先輩は黙ったままだ。何も言わないし語ってくれない。
朝から何度目かの、憎い相手に狙いを定めるスナイパーみたいな何ともいえない目つきをしながら、うつむき加減でもの言いたげに立っている。
「……先輩?」
何かしたのだろうか、と思った。意味もなく不安になり、あてもなく心配になった。怒らせるようなことをしたろうか。
心当たりはない。
先輩の機嫌というのはわかりにくい。それでも最近は微妙な違いが少しはわかるようになった。
不機嫌らしい。
何が、不機嫌なのかはわからないけど。
「…………先輩?」
地雷原を歩く気分だった。
地雷はじっと立ったまま睨みつけてくる。
何か言う。つぶやきは声にならず口の中で消えてしまう。僕を見た。それから少し怖い目で和泉を見た。それから不意に目をそらす。
ふと気づいた。
そうじゃないだろうか、と思い当たった。
「先輩……いっしょに、お弁当食べますか」
先輩の顔が跳ねあがった。顔をあげ、キッと固く唇を結ぶ。
バネ仕掛けのように動き始めた。
僕に何一つ言葉を挟む余地を与えず手を掴んで引きずっていく。
廊下の視線が集まった。異論の余地も議論の猶予も入る隙なく注目の的になる。後ろの和泉の冷たい視線が見えるようだ。
「――、れ?」
廊下の端に何か見た気がしたのも、ほんの一瞬のことだった。
先輩は歩調をゆるめない。小走りにならないと転びそうになる。廊下のざわめきを真正面から二人揃って突破していく。
視線を察し、後ろ指を感じ、ひそひそ声の噂話と笑い声すら聞こえるように思えてしまう。
いやになるほど恥ずかしく、顔を上げられないほど赤面した。
「先っ、輩、どこへっ?」
「お弁当」
一言だった。
「――お兄ちゃん」
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