第6話 8月12日 過去探索3・ツクヨミ
さわさわと風が吹き抜けていく。
鳥居とは結界への入口ともいわれている。つまり鳥居をくぐって嘉上神社という結界へ入るということだ。
だからだろうか、境内は外よりもひんやりとして感じられるのは。それは、神域にいるということなのかもしれない。
昨日見つけたおじさんのノートを手分けして読むことにしたので、今日は蒸し暑い土蔵の中ではなく境内を見ることのできる縁側で話をすることになった。風鈴が澄んだ音を奏でている。
正直なところを言うと助かった。これ以上、サウナのようなあの中での活動は耐えられそうになかったからだ。やせるにしても、あまり脂肪がついているわけではないから、下手をしたら命のほうがなくなっていたかもしれない。
美星ちゃんの出してくれた麦茶を飲む。冷たくて美味しい。
「前に嘉上神社に祀られているのが鏡だとお話したと思うのですけれど、他にもあったみたいです」
「あれ? 神様ってひとつの神社に一人だけ祀ってあるものじゃないの?」
「いいえ、いくつかの神様を一緒に祀ることの方が多いと思います。伊勢神宮も、内宮では
へー、そんなこと全然知らなかった。
「ちなみに、内別宮に月読宮、外別宮に月夜見宮があって、それぞれに、
それから、神様は一人二人ではなくて、一柱二柱というように数えるのですよ」
学のないところを晒してしまって恥ずかしい。
いや、それは置いておくとして、さすがは嘉上神社の巫女さんだなーと思った。このところの美星ちゃんには感心させられっぱなしだ。
「さすがは美星ちゃん、詳しいね」
「い、いえ。これはすべて父様がお調べになったことです。私ではとても……」
なるほど、ノートにそういうことが書いてあったということか。
「それで、どんな神様なの?」
「いわゆる、ヤマノカミです」
「……ごめん。詳しく教えてもらえるかな?」
月讀は、日本神話に登場する以外では、渡来氏族の
一方で、これとはまったく別に山の神としての性質を持っている場合がある。
農耕神としての月讀は、月の満ち欠けから種まきの季節を報せる神として、航海の神としての月讀は潮の満ち引きを司る神として信仰されてきたのであるが、山の神としての月讀は、それとは性格が異なる。
大和は、古来異界であり、狩人以外は人が足を踏み入れてはならない場所であった。
この異界においての信仰の対象は、山そのものかあるいは山頂から臨む、恐ろしいまでに冴えきった光を放つ月となる。
つまり、純粋に月の神秘と美しさ、夜の恐ろしさを祀ったものが、山の神、夜の神としての月讀であるといえる。東北の出羽三山における月山神社が、その代表と言えるだろう(狩人は、山に棲む獣から身を守るために、これを信仰する)。
そして狼は、この山=森の守護者、あるいは「おおかみ」の名の通り、神そのものである。
余談ではあるが、全国に三万二千ある稲荷神社の神使である狐は、元は狼だったという説を、研究者の梅原猛が唱えている。
稲荷神社とはその字からわかるとおり農耕神を祀り、祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)である。「うか」の読みからもこの神が、月讀の殺した保食神(もちうけのかみ)や豊受大神と同系列の神だとわかるが、面白いことに稲荷神社の総本山・京都の伏見稲荷大社を開いたのは、月讀を氏神としていた秦氏であった。
大社のある稲荷山には元々別の信仰があったらしいが……あるいはそれは、農耕神として以前の形態を持つ「山の神」――つまり月讀の信仰であり、秦氏が入り、同じ月神として習合したのかもしれない。
そして、神使である狼は、似た形態を持ちながらより里に近く棲み、田畑の益となる狐に変わったのかも……知れない。
「……えーと、ごめん。正直なところ、よくわからなかった」
難しい。学校で勉強していることはなんだったのかと思って、ちょっとブルーになる。
ただ、かろうじて理解できたことは、そのツクヨミノミコトというのがヤマノカミというものと同じような存在であるらしいってことだろうか。
「お兄ちゃんはニホンオオカミのことをご存知ですか?」
「なんだい、やぶから棒に」
いきなり飛び出たオオカミという単語に内心どきりとしながらも、僕は平静を装って麦茶をお盆の上に置いた。
「いえ、ニホンオオカミが絶滅したことはご存知なのかと思いまして」
「うーん、話は聞いたことあるけど、そういえば詳しくは知らないなあ」
「父様はそのあたりも調べていたみたいです。かつてはこのあたりにもたくさん狼がいたのだとか」
まあ、わからなくはない。狼は人狼の眷属なのだから、その血を継いでいる嘉上神社のあるこの地にいたとしても不思議はないだろう。
そしておそらく、人狼が滅びの道を歩んでいるのはニホンオオカミが絶滅したことに関係しているのだと思う。
そういえば、さっきの話にも狼が登場していた。狼は山の守護者だったか。
「1905年1月23日に、奈良県
「もう百年近く前のことになるんだ」
といっても、あまりぱっとこない。
「そうですね。日本では古くから田や畑を荒らすシカやイノシシを駆除する益獣とされていたのです。
「なるほど。だから山や森の守護者などと呼ばれていたんだね」
「ところで、送り狼ってご存知ですか?」
「えーと、女性を送っていく男性があとでいたずらをするっていうあれ?」
美星ちゃんはクスクスと笑っている。
「それもそうですけれど、本物の狼は人が森に入ると、ちゃんと外へ出て行くまで後をついてくる習性があったのだそうです」
「へぇ。なんていうか、それってすごく親切だね」
そんな話は聞いたことがなかった。
「そうですね。でも実際のところ、狼は犬に比べて縄張り意識が強くて、不審なものに対してはすごく過敏だったそうなんです。だから、ちゃんと縄張りから人間が出て行くのかを確認するためについてきていたんじゃないかってことなんだそうですよ」
「なーんだ。狼が森の外まで送ってくれるってことじゃないんだ。それって、ただの人間の勘違いってことにならない?」
「そうですけれど、もともと山は人間の住む場所ではなく、神様の住む場所だったのです。そこへ足を踏み入れるのは、極限られた狩人たちだけ。そしてその狩人はすべてヤマノカミを信仰していました。彼らにとって、神様の使いである狼に送られるということは、とても安心できたことではないでしょうか?」
なるほど。言われてみればそんな気もする。
「それに、日本の狼が人間を襲った話は極めて少ないのですよ」
「そうなの? なんとなく狼って怖いイメージがあるじゃない。ほら、『赤頭巾ちゃん』とか、『三匹の子豚』に出てくる狼とかさ」
「それは西洋の狼だからですね。あちらは家畜文化でしたから、それを襲う狼は嫌われたのです。実際に人間も襲われたそうですし、狼=恐怖という考え方になったのではないかと思われます。
一方、日本の場合は農耕文化でしたから、狼の襲う相手が田畑を荒らすシカやイノシシだったから喜ばれたのでしょう」
そんな文化の違いなんて考えたこともなかった。
「でも、だとしたらどうしてニホンオオカミは絶滅したんだろう? 美星ちゃんの話だと、生きていてくれたほうが助かる存在に思えるんだけど」
美星ちゃんは、ちょっと目を伏せて悲しそうな顔をする。
「ニホンオオカミが絶滅した原因のひとつは、疫病にかかって人や家畜を襲うようになったからだとされています」
「疫病?」
こくりと美星ちゃんはうなずくと、すっかり汗をかいたコップを手にとって、ぬるくなり始めた麦茶でのどを潤した。
寂しげに、風鈴がちりんとなく。
「狂犬病です」
「え? 狂犬病って狼もなるものなんだ」
「はい。狂犬病にかかった狼は気が荒くなって、普段ならば襲うはずのない人間にまで牙をむくようになりました。狼は犬に比べて身体能力も高く、牙も鋭いので、噛まれたら犬よりも発症率は高かったそうです」
強い風が吹いて、ざぁざぁと木々が揺れている。
「狂犬病は西洋からもたらされた猟犬によって広まったといいます。人を襲うようになった狼は、その神格を徐々に失っていきました。それに狼を害獣とする西洋文化の流入や、山間部の開発によるシカの減少も拍車をかけたのでしょう。加えて、狼狩りを推奨するところもあったそうです」
「……それで、絶滅したってわけか。なんだか悲しい話だね」
そうですねと微笑む美星ちゃんの顔は少しだけ寂しそうだった。滅びてしまったニホンオオカミのことを思ってのことだろうか。
「そのオオカミが、嘉上神社に祀られているみたいなんです」
ようやく話が戻ってきたらしい。
「大神って呼ばれていたんだっけ? 神様のように扱われていた狼が祀られていても不思議ではないように思うけど」
日本の神様の祀り方はかなり変わっている。祟りを及ぼす存在であっても神様として祀ってしまうというのがいい例だろう。
ちなみに先輩の話によると、そのように神様として祀られているいくつかは夜属であったらしい。
有名どころでは、学問の神であり雷神でもある
たしかに、雷神と畏れられた理由が雷を操る水蛟だからと言われれば納得もいく。
「……お兄ちゃんは、あの『手』のことを覚えていますか?」
うなずいた。忘れるはずがない。あれは間違いなく人狼の腕だ。僕や先輩のそれと同じだった。
それはすなわち、この神社が人狼にまつわる場所であることを証明しているといえる。
「父様は、あの体毛を知り合いである大学の先生のところへ送ったのだそうです。その結果、わかったことは――」
こくりと、美星ちゃんの小さなのどが音を立てたのがわかる。
それは、緊張だ。
「あの体毛は――」
もう一度、こくり。
「滅びたニホンオオカミのものであると――」
ざぁざぁと木々が揺れていた。
とくんとくんと聴こえてくる美星ちゃんの心臓の音は早鐘のようで。
雲が流れ、濃い影を落としていく。
風が吹く。
真夏だというのに、僕の背中には冷たい汗が流れていた。
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