第10話 7月28日 雨の降る駅1
雨が降っている。
夕立の雨が通って行く。
感覚を研ぎ澄まさなくても十二分に聞こえるくらい、激しく強く、つかの間に降る雨だ。
僕たちは駅のホームで帰りの電車を待っている。
槻那見駅は
先に帰った美空先輩と、車で来ていた綾乃先生はここにはいない。
僕と、何故か神妙な顔で黙りがちの美星ちゃん、それから見送りをしてくれるという水緒の三人で、電車が来るまでの時間を手持ちぶさたにつぶしている。
「雨だね」
「……うん」
あまりに自然な水緒の呟きに、僕は生返事をしながら、彼女の方を横目で見やった。
雨には思い出がある。
けれど、今、水緒がそのことを考えているのかどうかはやっぱりわからなかった。
三年前。
結局、僕には彼女のことがよくわからずに、そのせいなのか、そのせいでないのかもわからないまま僕たちの距離は離れてしまった。
三年という年月が長いのか短いのかよくわからないけれど、僕らの年齢にとっては、きっと一生というのとそれほど変わらないくらい長い気がする。
それでも、三年後に逢った彼女は、相変わらずあまりにも彼女過ぎて、僕にはどう接すればいいのか見当もつかないでいた。
「元気にしてた?」
「……うん」
「まだピーマンは嫌い?」
「……うん」
「今も部活とかやってないの?」
「……うん」
ふふ、とくすぐったくなるような声で、水緒が笑う。
雨がさらさらと勢いを弱めた。
「――あれ、人魚姫だね」
駅の壁にかかっているのは、ミュージカル公演の看板らしい。ニュースやネットで評判にもなっている劇団の、期待の新作だ。
以前、黛に連れられていったミュージカル「ドッグ&キャッツ」はかなりに面白かった。笑いあり、涙ありのスピーディーな展開が売りの新感覚ミュージカルで、ラスト付近の新人エージェントの機転を効かせた活躍に思わず手に汗を握ってしまった。もちろん、脇を固める引退を前にしたベテランエージェントの心憎いばかりまでの気配りや、極悪非道な敵のドッグ将軍といった配置も最高だった。
ふふ、とまた水緒が笑う。
「人魚姫、やったよね」
「うん……憶えてる」
演劇部もないような中学校の学祭の出し物が、有志生徒による演劇、というのも珍しい。
メンバーに作家志望の凝り性なのがいて、人魚姫と『海神別荘』を下敷きにした新感覚バイオレンスを書き上げた。だけど、最後のバイオレンスというのが学校側と折り合いがつかなかったらしい。
その脚本を書いた人が、R指定作品を一般向けにしたって駄作になるだけだと嘆いていたのを憶えている。
それでも、高塚中の演劇「vsマーメイド・プリンセス」といえば、あの界隈では今でもちょっとした評判だったりする。
一年、二年が中心で、受験真っ盛りの三年生は参加するはずもなかったんだけど、すったもんだの挙句、水緒が主役をやることになった。
「すごく、似合ってたわ」
「やめてよ」
口に手をあてて、水緒は必死に笑いをかみ殺している。
……あれは一生のトラウマだ。
この芝居に、僕は小道具役で参加していたんだけれど、よりにもよって当日になって、人間のお姫様役の二年生が盲腸で入院した。
急遽代役を探したけれど、当然いるわけもなく、人間のお姫様という重要な役どころを抜きにして芝居が成立するはずもない。
右往左往した結果、お姫様の台詞のほとんど全部を覚えている人間が一人だけいることが判明した。
運悪く、一週間ばかり主役であるところの水緒の練習に付き合わされた、他でもないこの僕だ。
つくづく運のないことに、僕は背が低くて童顔だったから、女生徒用にしつらえられたドレスも問題なく着られた。
で、顧問に収まっていた先生は、非常手段を採択した。
僕の懸命な抗議は、大義名分と芝居の成功のみを願う同朋諸氏によって暖かく黙殺された。
必死で水緒にすがりつくと、彼女はやさしく僕の手を取ってこう言ってくれた。
「がんばりましょう」
それもこれも今となっては思い出になっている。
「憶えてるっていえば……
「……うん」
憶えている。
図書館で出会った人。
ふわふわした綿毛みたいな暖かい人。
僕らが最初に出会うきっかけをくれた人。
「春みたいな……人だった」
「うん。……あのね、亡くなったんだって。結構、前の話なんだけれど」
三年という年月が長いのか短いのか、よくわからないけれど、変わらないでと願うとすれば、それは長すぎる時間なんだろうと何となく思う。
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