第14話 7月28日 真夜中のダイブ

 いつの間にか姿を見せた美空先輩は、とうに構えを現している。

 素人にはわかりようもない、構えるとも思えない構え。直立の姿勢からわずかに右足を引き、わずかに左足を進めた姿から、美空先輩はどのようにでも変化できる。

 美空先輩は僕とは違う。無手であっても、人狼へと変化を遂げなくても、優秀な戦闘者なのだ。


 聴こえるともなしに聴こえてくる。

 音ではない音が歌となって寄せてくる。

 寄せては、引く。

 美空先輩だってとうの昔に気付いているだろう。敵は一人ではない。


 そう。

 敵だ。

 こいつらは敵だと、夜から漂い出てくる歌が教えてくれる。忌ではないけど、味方でもない。


「あによ、あんたたち!」


 つぐみの猛然たる抗議は、沈黙によって無視された。それは鉄を叩いたような手応えの沈黙だった。

 彼女は冷徹なまなざしで僕らのことを見つめているだけだった。


 真っ黒の服を着込んだ男たちは、まるで映画の登場人物のように現実感がなかった。

 表情はうかがい知れない。この暗闇の中、漆黒のサングラスをかけている。

 おそらくは、なんらかの仕掛けがついているのだろう。ヒトは道具なくして、夜の闇を見通すことはできないのだから。


 素手の者はいなかった。それぞれに手に持つのは重そうな銃だ。銃身につけられたライトが闇を切り裂くようにして僕らを浮かび上がらせる。


「三輪つぐみさんに、小泉真子さんを保護して下さい」


 あの娘は――ブリジットは二人の名前を知っていた。恐らくは先輩の名前も知っているのだろう。


「安心して下さい。指示に従う限り、二人に危害の及ぶことはありません」


「ふざけんじゃないわよ! あんたらに指示してもらう義理なんてないんだから!」


 つぐみの反論は至極まっとうだった。銃を突き付けておいて指示もへったくれもない。

 だけど、この相手は、普通の正論が通じる相手ではないのだろう。

 それに、つぐみたちがいることで不利になるのは僕らの方だ。


 入口方向に二人。出口方向に二人。

 ダムという断崖に懸かった橋の、出入口を塞がれた格好になっている。


 彼らが持っている銃が僕の思っている通りの性能を持っているなら、人の身体で抵抗すれば、蜂の巣にされることは間違いがない。あれは殺傷のために産み出された、そのためだけの道具なのだ。

 それに、目に見えているだけではない。まだ他にもいることは僕も先輩もわかっている。

 抵抗する手段は一つしかない。


「……つぐみと委員長はあいつらの指示通りにしてくれ」


「いやよ」


 即座に、きっぱりと言い切るつぐみ。


「あんた、今日の朝、宗哉と会ってたわね。いったい何処のどいつよ。いったい、ナニモノなのよ!」


「〈伽藍がらん〉――」


 答えはブリジットでも僕でもない。

 美空先輩だった。


「彼らに従わなければ、あなたは死ぬわ」


 特別変わったことを言うでもない美空先輩の言葉だった。


 彼らがそうか。

 僕は、理解する。


 止まることを知らない世界時計の精緻な歯車、無限図書館の永久司書。

 彼らに必要なのは役割であって区別ではなく、規格であって名前ではない。〈伽藍〉と呼ぼうがアンヘルと呼ぼうがMIBと呼ぼうが、そんなことは僕らにも彼らにも誰にとっても夕食の献立より瑣末で些細な問題なのだろう。


 先輩は既に戦機を窺っている。いつなりとも弾丸より迅い弾丸になる。表情の抜け落ちた表情がそう雄弁に物語っている。

 ほどなくここに立っている人間はいなくなる。

 立っているとするなら、それは怪か、自ら人間という立場を捨てた者だけだろう。


「つぐみ、素直に行ってくれ。すぐ戻るから」


 根拠なんてこれっぽっちもないけれど、そう言わなければならない。僕はつぐみに何一つ本当のことを告げてはいない。


「お断りよ!」


 当然だ。


「いったいなんなのよ! こいつらは何よ! 宗哉は――」


 つぐみが怒るのは当然だ。

 僕はずっと、嘘をついてばかりだった。


「宗哉はどうなっちゃったの!? どうなっちゃったのよ、宗哉はっ!」


「その手を――」


「え……?」


「その手を離してはいけない」


 何を。

 何を言っているのか。

 確認できる立場ではない。それに、確認する暇もなかった。


「――!?」


 最初に動いたのは委員長だった。それも、誰も予測のできない行動だった。

 予測のしようがなかった。


 飛んでいた。

 まるで弔いの花束のように、教会の花嫁の投げるケープのように、委員長は宙に舞った。

 舞い落ちる先は奈落だ。ダムの底だ。


「い、」


 水面といえどこの高度で、この落差で生身の人が無事で済むはずがない。


「委員長――っっ!」


 僕は悲鳴を上げることしかできなかった。


 美空先輩は違った。


「――シッ!」


 裂帛の呼気だった。瞬きひとつする間に姿が消えていた。それほどの動きだった。

 まるで委員長が大切な肉親でもあるかのような、迷いのない動き。

 僕はといえば、身動き一つ取ることができなかったというのに。


 気がついたときには、委員長と同じ奈落に美空先輩は身を躍らせていた。


「――――っ!!」


 僕の悲鳴はもう声にすらならなかった。

 美空先輩は泳いだ経験がほとんどない。泳げないとまでは言わないまでも、水練の達者にはほど遠い。委員長を助けて自らも生を全うすることは――


「大丈夫」


 つぐみが、防柵の上に登っていた。


「お、おい!」


「大丈夫だからね、宗哉。二人のことはあたしが助けるから」


「待て、つぐみ!!」


 止める間すらなかった。


「待てえ――っ!」


 絶望に彩られた声が、夜の静寂しじまに溶けていく。


 昔からあいつは人の言うことなんて聞かない奴だった。水音を聞きながらそんなことを僕は思った。


「ひとのはなしをきけよぉ……」


 つぶやく。

 つぶやいてみたら、半泣きの声になっていた。


 つぐみは。

 底も知れない奈落へと。

 銀鱗を備えた魚のように、跳ねて飛んだ。

 美空先輩の水練の技量は教えたつぐみもよく知っているはずだった。

 無理だと判断したつぐみは正しい。だけど、二人もの人を助け上げることなんていくらなんでも人の身にできようはずがない。


 大体、ここに来ていることすら、つぐみのコンディションが万全でない証拠なのだ。

 万全なら、つぐみは水泳の大会に出場していて、ここでこんな危険に遭うこともありはしなかったはずなのに。


「救出を」


 ブリジットが誰にともなく命じる。

 辺りに響くような声でもないのに、僕らを包囲していた兵士は姿を消していた。言葉通りに救出に行ったのかどうかはわからない。


「全隊、戦区から退避して下さい。急いで」


 そう言った彼女は、金縛りからようやく解けた僕と、三人を呑み込んだダムの奈落の間に、行く手を阻むように立ちはだかった。

 いや、その明確な意思が、彼女の行動からは伝わってきた。


「君が――」


 僕は、ブリジットの言葉を聞いてなんていなかった。聞こえてはいたけど人語なんて今の僕には無意味で、理解の必要のないただの鳴き声だった。


「君が何者で、どういう目的でこんなことをするかなんて知らない。だけど、僕のことを邪魔するというなら――」




     「―――僕は、君を殺す」

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