第2話 9月21日 美空の探索その1

 石段を駆け下りる。

 転がり落ちるのと大して変わらない。前もろくに見ない。飛ぶように地面を蹴って、着地するのももどかしく疾走する。


 斜面に沿った心臓破りの石段の中ほどで頬に雫が当たった。絵の具で塗りつぶしたような濃い雲が月をすっぽり覆い隠す。街灯一つ、明かり一片ろくにない嘉上神社の一帯は、それだけで鴉の濡れ羽のような闇の色に閉ざされた。


 雨が降り始めていた。

 あっという間に、本当にまばたきする間に、バケツをぶちまけたような雨になる。

 村雨だった。

 雨の色を白いと感じる、視界の先が白の薄膜に遮られる。

 肌に当たる雨粒を痛いと感じてしまう雨だ。


 足を止めた。

 顔を上に向けると目も開けていられない。

 この雨の下のどこかに先輩がいるのだと思う。

 この雨をどこからか見つめているのだと思う。


 風が強い。

 村雨はそう長くは続かない。

 一時だけの雨が木立の葉を激しく揺らす。

 石段を滝のように流れていく。


 何もかもが、なるように、上から下へ、高きから低きへ落ちていく。

 逆はありえない。絶対に、断じてあり得ない。


 思い出す。

 神社で先輩を見つけた時。

 あの時に聞いた死の音は、その未来は、いったい誰の未来だったのだろう。


 嘉上のおじさんか、美星ちゃんか。

 僕、か。

 それとも――。


 雨が降っていた。

 泣いているようだと思った。

 誰が泣いているのかはわからなかった。


 かすかな声が聞こえてくる。

 遠く音を引く声。

 人狼特有のもの悲しい声だった。


 僕は耳を澄ませる。聞き逃さないように。何を伝えようとしているのかを確認するために。


 その声は――

 先輩の声ではなかった。


 今の僕には、どうでもいい他の何かだった。


 構わず僕は走り出す。

 走る。

 走る。

 走る。

 雨を突っ切る。

 迫る夕闇を突っ切る。

 美空先輩を捜す。

 当て所もなく捜す。

 先輩を捜す。


 後ろから追ってくる足音が迫る。

 僕と同じ人狼の姿。

 おそらくは先ほどの遠吠えの主だろう。

 僕と先輩以外の狼の姿だった。

 心当たりは一つしかない。


 振り切るようにして跳躍する。

 高く高く飛び上がる。

 月へ向かって飛んだ。

 宙に身体がある無防備な瞬間を蹴り落とされた。


 ばしゃばしゃと水をかきながら、なんとか岸までたどり着く。

 荒い呼吸を繰り返して息を整える。


 影が重なる。

 地面には一本歯の下駄が並んでいた。

 顔をあげる。


 そこで待っていたのは、引きずるほど長いくたびれた着流しをまとった男性だった。

 忌となってしまった美星ちゃんを狩らなければならないと言った人だ。

 くいとあごをしゃくる。あがれということなのだろう。


 僕の身体からしたたる水で、岸が黒く染められていく。


「何故、ワシの呼びかけに応えなんだ」


 ぎょろりと左目で睨みつけられる。

 さっきの遠吠えのことだ。


 僕はそれに応えなかった。腹に力を入れて、目の前の老人の言葉を受け止める。口を真一文字に結んで、黙秘する。


「沈黙か。賢くはないの」


 わずかに口元がゆがめられたかと思うと、深々と拳が僕の腹にめり込んでいた。


「ぐ、げぇ……」


 胃液を戻す。昨日の晩から何も食べていないから吐くものなんて残っていなかった。

 熱い液体が胃からあふれて咽を焼く。両膝をついて、両手で土を握りしめて痛みを堪える。

 からんと下駄が鳴り、老人が僕の前に立つ。


「今一度問う。七世〈銀〉はどうした?」


 顔をあげて睨みつける。

 言えるはずがない。先輩が夜に呑まれたかも知れないなんて絶対に言えるはずがなかった。

 だから無言で睨みつける。老人は薄い唇を噛みしめ、呻いているようだった。


「やはり、ケモノに堕ちたか」


 その言葉に僕は瞬間的に沸騰した。


「やはりってどういうことですかっ! それじゃあ初めから先輩がそうなることを知っていたと言っているのと同じじゃないですかっ!」


 睨み付ける眼にありったけの力を込めた。

 老人は左目だけの眼で見返していた。


 少し濁った色をした瞳だった。奥にあるものが何かはわからない。

 けれど、なぜかその色が悲しみのように見えた。僕の思い過ごしかもしれないけれど。


「もともとアレには脆いところがあった。それを鍛え、慣らし、磨き、練り上げた。アレは人狼であるのと同時に、芸術的な逸品でもある」


 怒りに肩が震える。


「……それって、それって先輩を物と同じに見ていたってことですか。貴方たちは先輩をそういうふうに扱っていたということなんですかっ!」


 睨みつけるだけで相手を殺すことができたのなら、今の僕の目は、この人を躊躇なく殺していることだろう。


 許せなかった。

 先輩がどれだけ苦しんでいたのか、この人たちはまったくわかっていないということが。


 許せなかった。

 先輩や美星ちゃんがこれまでにどれだけ傷ついていたのかを、この人たちがまったく理解しようとしていなかったということが。


「過ぎたことを言うな。ワシらとてアレを幼い頃から見てきておるのだ。親のような気持ちすら持っておるわ。

 だからこそ、ワシらは主との出会いを歓迎しておったのだ。わかるか? 主が〈銀〉の支えになってくれることを期待しておったのだ。つがいとなった狼は強くなる。護るべきものがおる者は強い。

 ……しかし、期待はずれだったようだの」


 老人は静かに首を振る。


「……一つだけ聞きたいことがあります」


「なんだ」


「夜に呑まれてしまった夜属は、絶対に助からないんですか?」


 重苦しい沈黙が辺りを支配する。


「場合によっては、元に戻ることもある。おそらく〈銀〉ほどの使い手ならば己の意識を保つことも可能であるだろう」


「だったら」


 右手が伸ばされたので口をつぐむ。


「しかし一度道筋ができてしまった以上、次からも囚われやすくなる。仮に己の意識が残っていたとしても、両手足を切断し続け、朽ち果てるまで座敷牢に閉じ込められることになるだろう」


「そんな、そんなことって!」


「言うな。それが夜属の則なのは主とてわかっていよう。ワシらにはどうしようもないことだ」


 川面を渡る風が、着流しのすそを弄んでいる。


「ワシは額辺へ報告をする。ケモノに堕ちたモノは危険だ。両の瞳が赤く輝いたが最後、二度と戻ってくることはない。あとはケモノに操られながら無差別に人を襲い、喰らうただの化け物となるだけだ。〈銀〉を狩るとなると、安土に連なる使い手を呼ばねばならぬだろう。恐らく呼ばれるはあやつ。そうなれば誰にも救うことは叶わぬ。

 よいか。ワシは額辺へ報告を入れる。狩りは明晩からだ。忘れるな」


 それだけを言い残すと、老人は姿を消した。


 明晩と言っていた。

 それはすなわち、今夜だけは時間をくれるということなのだろう。

 それですべてを許せるというわけではないけど、心遣いには感謝した。

 だから、僕は頭を垂れた。


 片目の古狼の去りゆく背を、雨と夜闇がかき消していった。

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