s49天使

第1話 9月7日 レクイエム[三人称視点]

 震える手で瓶が傾けられた。

 カチカチとガラスが触れ合う音が響く。

 透明な液体が満たされてゆくのを、九重ここのえ華子はなこは科学者の目で冷静に見つめていた。


 グラスから溢れ出すのを見て瓶を傾けるのをやめる。こぼれたのも気にせず、一気にグラスの中身を咽へと流し込んだ。

 味も何もあったものではない。ただ酔うために飲む酒に味や香りは必要ないのだから。


「ええかげんにしとかな、あんた、そのうちぶっ倒れるで」


 豊かな黄金色の髪と、深く澄んだ青い瞳を持つ少女――カナリー・フォスターが呆れ顔で華子のことを見ていた。


「……いつ入ってきた」


 無遠慮な視線でフォスターを見やる。


「さっきや。一応、ノックもしたんやけど、返事がなかったから勝手に入らせてもろうたで」


 華子はまったく気づいていなかった。

 それは彼女にしては珍しいことだっただろう。


「ちょうどいい。おまえも一緒に飲め」


 華子はどんと瓶をテーブルの上に置いてみせた。


「ええけど、酒はほどほどにしとかな、ほんまに身体壊すで」


「アルコールには脳の中枢神経のはたらきを抑える性質があるのを知っているか?」


 そこで再び杯をあおる。


「理性を司る大脳新皮質の活動が鈍くなり、大脳辺縁系の本能的、原始的なはたらきが活発化するわけだ。そのせいで解放感を感じ、ストレス解消効果が得られるとされている」


「やけど飲み続けると血液中のアルコール量が増えて、新皮質にとどまらず、辺縁系、小脳なんかの他の部分もマヒするんやなかったか? 泥酔状態から呼吸を司る延髄にまでマヒが広がると、最悪の場合は死ぬんやろ」


 いかにも酒がまずくなったと言いたげに、華子は顔をしかめた。


「だからなんだ? 人間には、酒を飲まないとやっていられないときだってある」


 フォスターは優雅に肩をすくめると、華子の前に座った。

 やや混濁した瞳で、華子はフォスターをねめつける。


「この国ではな、飲酒は二十歳からと法律で決められている。おまえ、年はいくつだ」


「うちの国では18からやけどな」


 フォスターはまだハイスクールに通っているような歳だったのを思い出す。


「ならば水でも飲んでいろ」


「なんやねん、自分から誘っといて」


 わずかに濡れたような青い瞳が華子のことをじっと見ていた。


 ここは華子の職場だった。それは即ち、加賀瀬高校の保健室ということである。

 深夜ということで、学校の関係者は誰もいない。いたとしてもアンヘルが近づけさせないだろう。


 華子は去年の春からこの場所を職場としている。だが、来年には別の場所へと移っているだろう。


 フォスターは長い足を組みかえ、華子のほうを伺うように見ている。なにやら言いたいことがあるのだが、言い出せないといった感じだった。


「私に言いたいことがあるのだろう?」


「そう……やけどな」


「言いにくいことなら、私のほうから言ってやろうか?」


 それを聞いて、フォスターは悪戯を咎められた子供のように背中を丸める。


「この酒はな」


 華子は瓶に貼り付けられたラベルをフォスターに見えるように向けてやる。


「『くう』といってなかなか手に入る酒ではないらしい。その筋では幻の酒などと呼ばれているという話を聞いたことがある」


 実のところ、特定の業者にしか卸していないから手に入りにくいだけなのだが。

 酒の話が続いているせいで、フォスターは少し拍子抜けをしたような顔をしていた。


「この酒は、恭一の好きな酒の銘柄だ」


 びくりとフォスターの身体が震えたようだった。華子の気のせいではないだろう。この程度で酔うほど弱くはない。


 無言の時が過ぎる。

 壁にかけられた秒針が静かに時を刻んでいるだけだった。

 他に誰もいないであろう学校は、静謐せいひつな墓地のような印象を与えることだろう。


「す――」


「恭一はね」


 華子の声が重なるようにしてフォスターの言葉を遮る。


「ああ見えても下戸でな。格好がつかないとよくぼやいていたよ。ま、日本人の約一割がアルコールをまったく受け付けないそうだから、そっち側だったのだろうな」


 それだけを言うと、華子は口をつぐんだ。

 しばらく、唇を震わせていたが、やがてぽつりという感じで言葉が漏れた。


「あいつは――立派だった?」


 フォスターの目が細められる。

 まるで感情をその瞳から読ませまいとするかのように。


「ああ」


「馬鹿を言うな」


 間髪いれずに華子が否定をすると、少女はとても傷ついたような表情をする。


「アンヘルの本来のあり方とはなんだ? 一部の突出した才能によって率いられる者たちの総称か? 単独行動の推奨か?」


 カンと音を立ててグラスがテーブルの上に置かれる。


「違うだろう」


 その言葉に青い瞳が伏せられる。

 アルコールの勢いを借りるようにして、華子はさらに言葉を重ねる。


「ヒトはヒト以上の存在になることはできない。種としての限界がある以上、それを突破するにはヒト以外のものになるしかない。だから、アンヘルは、ヒトは、夜属や忌に単独戦闘では勝てないのだ」


 それは純然たる事実だった。


「そのことを一番知っている現場の叩き上げの人間が、ひとりで夜属に挑むなど本来はありえないはずだ。そうだろう?」


 あまつさえ、〈銀〉などと異名を取る人狼に一人で戦いを仕掛けるなど、狂気以外になにものでもない。


 問いかけの形にはなっているが、別に賛同も否定も欲しているわけではなかった。それがわかっているからだろうかフォスターは何も言わない。


 グラスに注がれた透明な液体を見つめる。

 限られた空間でたゆたうそれは、水のように見えるがそうではない。

 見た目が似ているからといって、本質まで同じとは限らない。


 そう、それはヒトと夜属の関係にも似ている。

 夜属の外見は、人類の持つそれと非常に似通っている。いや、似ているのではなく、まさしくそのものと言っていいだろう。


 だが、夜属はヒトではない。人間とは別系統に属しており、なおかつ生命種としては人類よりも優れている。


 だから、ヒトは、アンヘルは、夜属に及ばない。特に狩猟者としての性質を兼ね備える人狼に単独で仕掛けるなど、ありえない話だった。

 それは、積極的な自殺だと思われたとしても不思議ではないだろう。


 ――自殺?

 華子の口元が苦い形に歪む。


 あいつは自らを殺す必要でもあったのだろうか?

 それともあいつから度々漏れ聞いた『夜の姫』という言葉――夜に魅入られでもしたのだろうか。


「覚悟はしとったはずや」


「かくご、だと?」


「せや、覚悟や。あんたの言う通り、ヒトの力で夜属に勝つことは不可能ではないけどかなり難しい。それこそ万に一つのような可能性や」


 青い瞳がまっすぐに華子のことを見つめている。


「やけどな、人間はそういった可能性に、負けるのがわかっとっても勝てる可能性がわずかでもあるんやったらそれに賭ける生き物なんとちゃうか?」


「それが理性的な判断だ、とでも言うつもりか? ならば、私はおまえをばらしてプログラムを組みなおす必要があるが?」


 フォスターは肩をほんの少しだけあげてみせる。好きにしろというところだろう。やけに人間くさい仕草だった。

 いや、もともとフォスターは人間だったのだが。


 結局、水野みずの恭一きょういちという名称で呼ばれた人物がこの世から消えたという事実だけは変わらない。


 彼がどういう目的で戦いに赴いたのかは誰にもわからない。

 そもそも、任務に忠実であった彼が単独で行動することなどこれまでに一度としてなかったのだからなおさらだった。


 だからこそ、華子は驚かされた。

 最後まで任務に準じて死んでいく男だろうと思っていたが、それは彼女の思い込みに過ぎなかったらしい。


「あいつはな、銀色の狼を追っとったんや。井吹野の件はあんたも知っとるやろ?」


 黙ってうなずく。

 それはF《フォスター》シリーズ初の実践投入だった。


「あれから機会をずっとうかがっとった。情報を集め、分析し、対策を練った。結果、勝機があると踏んでの今回のことやったんやろう」


「だが、負けた」


 百万の言葉を費やしたとしても、その事実は変わらない。


「やけどな、貴重なデータは取れた。残されたうちらはそれを活かし、次に役立てなあかん。そうやってこれまでのアンヘルは人外の化け物たちに対応してきたんやないか」


 鋭さを失った瞳が少女を睨みつける。

 小娘に説教されずとも、華子にはわかっている。彼女はずっとそれを実践してきたのだから。

 その結果、生み出されたものの一つが、目の前のフォスターと呼ばれる少女なのだから。


 今のこの気持ちはただの感傷に過ぎない。

 そんなことはわかりきったことだった。

 かつて肌を触れ合わせた男が死んだだけだと割り切ればいいだけの話だ。


 ただ、それだけのはなし――


「……氷の女にも涙、か」


 フォスターのつぶやきにはっとなって自分の頬に手をあてると、そこはわずかに濡れていた。

 涙を流すなど、いつ以来のことだっただろう。本人ですら思い出すこともできない。


 外は暗い。

 今日は新月――月のない夜だ。わずかに星の輝きがこの地上を照らしている。

 無口な男が死んでいくには似合いの夜だろう。


 黙って華子はグラスを傾ける。


 寡黙な男の旅立ちの祝福を願って――。

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