第3話 8月29日 記憶を食む仔

 夏ももう終わりだった。

 この夏は、これまで過ごしてきたどの夏とも違っていた。


 夜属として目覚めなければ、決して知ることのなかった世界を知り、その世界を歩いていかなければならなくなったこの夏を忘れられるはずがない。


 巫女装束の先輩と歩く。

 目的の場所は額辺のお屋敷の近くにある河原。そこへ僕は呼び出されていた。


 なんとかいう儀式をクリアしなければならないらしく、その見届け役が今日会ったばかりの安土さんという女性だった。どうやら先輩の態度からするとちょっと怖い人らしい。


 いや、なんとなく嫌っているというか、避けている感じに近いだろうか。おそらく、先輩にしては珍しい感情だった。


 もしかしたら、これらかもこんな厄介事が僕の前に待っているのだろうか。それを考えただけでもブルーになる。

 贅沢を言うつもりはないけれど、できればもう少し穏やかで慎ましやかな人生を送りたいと心の底から思う。


 今日は月が登るのが遅い。だから夜の空は星々の瞬きでいっぱいだった。

 よく宝石箱をひっくり返したようなという形容がされるけれど、この星を宝石に見立てるのなら、世界中のすべての宝石を集めたとしても足りないのではないだろうか。


「夜にまたたくほしはしろ、か」


 前をゆく先輩がくるりと振り向いた。


「なに、それは?」


「和泉の口癖です。叔父さんが詩人なんだって……って、この話って前にもしませんでしたっけ?」


 唐突にくらり、ときた。

 これは――この感覚は、いつものあれだ。






 ああ、楽しげな声が聞こえる。

 いつも僕にまとわりついていた少女。

 長い髪。

 でも、誰なのだろう。

 わからない。

 僕は彼女が誰なのか知っているはずなのに。

 わからない。


「――やくん」


 声が聞こえる。


「――やせんぱい」


 そう、僕は彼女よりひとつ年下で。


「―うやくん」


 美星ちゃんと仲が良くて。


「―うやせんぱい」


 なんだかいつも一生懸命で、僕は放っておけなくて――。


 ガクガクと身体が震える。

 視界が揺れる。

 記憶がかき混ぜられる。

 かすかな残滓。

 踊り、弾み、表層へと届く最後の一欠片。






 不意に音と色彩が戻る。

 先輩が隣で厳しい顔をしていた。

 視線を追う。


 それは少女だった。

 どこにでもいるような少女。長い髪を両サイドで結んでいる。一歩ずつ歩くたびに髪が揺れている。

 どこかで見たことのある少女のはずだった。


「この臭い――忌ね」


 先輩の腰が落ちる。戦闘モードだ。


「正確には忌の仔やけどな」


 美空先輩は少女を見据えたままだったけど、僕は振り返っていた。

 そこにいたのは黒いスーツを着た女性だった。柔らかそうな金髪がふわりと揺れる。


「狭山宗哉――やな」


 今日は知らない人から声をかけられる日なのだろうか。僕に外国人の女性の知り合いはいないはずだけど。


「あの娘を、あんたが殺すんや」


 いきなりとんでもないことを言う。どういう理由があって僕が名前も知らない女の子を殺さなければならないのか。


「さもなければ、うちがあんたを殺す」


 抗議の声をあげようと思った時には、黒い銃口が僕を睨みつけていた。どこから取り出したのかすらわからなかった。

 そのままずんずんと近づいてくる。向けられた拳銃は僕の眉間を捉えて離さない。


 嫌な汗が背中を伝う。

 ゴリリと銃口が押しつけられた。


 女性の青い瞳は僕をまっすぐに見つめている。とても冗談とは思えない。


「あんたが、あの娘を殺すんや。そこの雌犬やないで。あんたや。男やったらきっちり責任とりぃ!」


 その言い方はすごく誤解されそうなんですけど。ちらりと先輩の方をうかがうけど、幸いにして先輩は少女の方を見たままだった。


「こんなこと冗談で言うとるわけやないで。言われへんだけで、ちゃんと理由があった上で殺せゆーとるんや。やるのかやらんのかはっきりしぃ!」


 女性の目は本気だった。それに、どこか悲しそうな色をしていた。

 何か理由があるとは思うけど――

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