第2話 8月20日 恋する乙女

 しばらく鳴ることのなかった呼び鈴の音。

 最近は常連の美空先輩もつぐみも僕の部屋はお見限りだった。


 美空先輩は何やら慌ただしいみたいだったから仕方ない。

 つぐみも、仕方ないだろう。あんな僕の姿を見てしまったのだから。


 ささくれ立った気持ちが他人と会うことを拒絶している。

 顔を見るのも言葉を交わすのも億劫だった。

 けれど、心の奥底で誰かと触れ合っていたいという気持ちがあるのも事実だった。

 ヒトは、独りで生きていくことはできない。


 しばしの逡巡の後、ドアを開くと――


 ――そこにいたのは、懐かしい、いつもだった。


「……おす」


 たっぷりと長すぎる時間を置いてから、僕がようやくそう挨拶した。

 随分と久しぶりだったけど、「久しぶりだな」の次の一言を僕は思いつかない。


「…………」


「………………」


 言わなければいけないことがない訳ではない。

 ただ、そのどれもが言いたくないことばかりだったから言うことができないでいた。


「まあ、上がれよ」


 こたつ机の前に来客用の座蒲団を敷くと、でっかいつぐみはその上にちんまりと座る。

 つぐみの制服姿を見るのも久しぶりだった。

 ふと、思い出したことがある。


「……今日って、出校日だっけ?」


 僕の問いかけにつぐみは「うん」とも「ううん」とも言わずに黙っていた。


「紅茶? コーヒー?」


「…………」


 つぐみは黙っている。

 話があって来た訳ではない、というふうにも見える。申し開きがあるなら聞こう、というふうにも取れる。

 ともかく、つぐみは自分から何も言わない。

 僕の準備ができあがるのを待っている、という感じだった。


 豆は酸味のきついモカにした。ミキサーがびっくりするほど大きな音を立てる。

 カップが二つ、ドリッパーが二つ。

 ペーパーに挽いた豆をあける。お湯で少し湿らせて蒸してから、ゆっくりとドリッパーに湯を滑らせる。苦い色をした液体が滴一滴とカップに落ちてゆく。


 ふとコーヒーってつぐみみたいだと思った。こんがりと焼けていて香ばしくて、熱い。


 つぐみの夢を思い出す。

 あの時のつぐみはこんな感じだった。頭では忘れているのに肉体が憶えている感覚。


 身勝手な夢だ。夢物語だ。

 あんな真似をつぐみがする訳がない。求めていいはずがない。

 とうに失ってしまった資格だ。

 僕にはもうそんな資格はない。


 再確認する。


「町を出て父さんの所へ行こうと思う」

「僕は、お前も見たとおりの怪物なんだ」

「だからもう会いに来るな」


 かみ締めるようにして台詞を確かめる。


 雫の落下が止まった。

 僕の分とつぐみの分のカップができ上がった。

 準備はできた。

 さあ、行こう。


 言い聞かせて今にも振り向こうとしたとき、ほんの些細なその音にお盆を取り落しかけた。


「美空先輩――」


 救われた気持ちだった。祈りは、聞き届けられたのかも知れない。

 このコール音は、美空先輩からのものだった。この番号でかけてくる人は他にいないのだから。


 鳴りやまないコール音に急かされるように、僕は携帯を手に取った。


「出ないで」


 そう言ったのは、つぐみだった。


「……え?」


「出ないで」


 鳴り続けるコール音は早く出ろと急かしている。


 こうして僕のところに電話がかかってくること自体、携帯電話の上下の向きすらわからなかった先輩にしては結構な奇跡だ。奇跡は、二度とは期待できない。


 それに美空先輩専用にコールを設定したのには相応の理由がある。

 もし非常事態だったなら、僕は急いで先輩を助けに行かなければならない。そのために携帯電話を渡したのだから。


 コールは続いている。

 早く出ろと僕を急かしている。

 出ない訳にはいかない。

 その理由がある。

 だけど――


「出ないで」と言ったつぐみの声はいつものそれではなかった。


 僕が知っているつぐみは間違っても理由もなくこんな真車違っても理由もなくこんな真似をしたりはしない。


 では、何がつぐみにそう言わせているのか?

 わからない。わからないけど。

 つぐみをこのままにしておいていいわけがない。


 先輩の顔が浮かんだ。

 虫の居所の悪そうなままで、怒りも悲しみもしない先輩のあの顔は、多分僕がどんなに手ひどく裏切ったとしてもそのままの表情で僕を見るだろう。

 怒っているのか、悲しんでいるのか、それともなんとも思っていないのかわからない先輩の、平気なままのあの顔で。


 言いようのない居心地の悪さが襲ってきた。

 悪いことをしているような気分だった。


「……どうして」


 何故出たらいけないのか。

 要件を聞いて切ればいいだけのことだ。なのにどうしてなのだろう。どうしてそんなことを言うのだろうか?

 僕の問いかけにつぐみは答えない。


 伏せた顔に前髪がかかって表情が見えない。

 水泳をやっていて鍛えられた身体がやけに小さく見える。

 ああ、つぐみってやっぱり女の子だったんだ。

 そんな感想を抱いたとき――


 するりと、制服のリボンが床に落ちた。力をなくしたかのように、床の上に横たわるリボン。


「……?」


 僕はつぐみが何をしているのかわからなかった。

 続いて、ジィーというチャックの音。それから、ぱさりと布が床に落ちる音。布が僕とつぐみの間で広がっている。

 制服のスカートが舞い散る。


 僕は息を呑んだ。

 呼吸が止まった。

 心臓も止まった。


 つぐみが、解いていく。

 つぐみを、つぐみ自身をほどいていく。

 白いレースの上下の下着すらも、フローリングに羽根のように舞い落ちていく。


「……出ないで」


 どうすることもできなかった。

 僕は指一本も呼吸一つすらもできなかった。


 一糸纏わぬつぐみの姿は、真っ直ぐに僕に向かって立っていた。

 そうして真っ直ぐに、つぐみは僕を見ていた。

 並の男には一生できないような顔をして、つぐみは真っ直ぐ、僕に向かっていた。


 僕は人ではなく、おまけに狩人アンヘルに狙われている。

 だけど、それがどうしたというのだろう。

 正体を見破られた僕はつぐみを信じられずに、すっかり僕を見限るものだと思い込んでいた。

 だけど、それがどれほどのことなのだろう。


 つぐみが言っていた。

 体中で叫んでいた。

『それでもあたしは、宗哉の名を呼ぶ』と。


 たとえバケモノだろうが、夜属だろうが、ヒトオオカミだろうが、つぐみには些細な問題のようだった。いや、眼中に入ってすらなかった。


 いつだってつぐみは尻込みしている僕の背をどやしつけて引っ張って行く。明るくて美しくてかけがえないと今ではわかるあの場所へと。


 僕はつぐみに打たれていた。

 僕のちっぽけな望郷だとか、自制だとか、絶望だとかは丸ごと消し飛んでいた。そんなものは全く問題にならない塵芥じんかいだった。


 つぐみは、想像を絶していた。

 僕は圧倒されていた。

 どうすることもできなかった。どうしようという思考もできなかった。

 一糸纏わぬつぐみは清らかで、神聖で、犯しがたくて、手を伸ばしても触れられる気がしなかった。

 ひざまずき、指を組んで祈りたくなった。


 男ですら、異性の前で裸になるのは簡単なことではない。少なくとも僕にはできない。

 でも、つぐみにはできる。

 女の子のはずのつぐみにはそれができる。


 いや。

 異性どころの騒ぎではない。

 僕はヒトともオオカミともつかないバケモノで、つぐみだって目の当たりに見て知っているはずだ。

 なのに。


 ごわごわの獣毛とせり出た顎と尖った耳、暗闇に光る目。それでいて尚、ヒトの手足。

 今にも僕の爪や牙がつぐみを傷つけるかも知れないというのに。


 そんな得体の知れぬバケモノである僕の前で、身体を覆うもの全てを脱ぎ捨ててしまえるものなのだろうか。たとえ心を開けたとして、尚身体までも開けるものなのか。

 僕にはできない。

 でも、つぐみにはできる。

 つぐみには。


 凄い。

 差を見せつけられた気がした。

 僕はちっぽけで、つぐみは凄い奴だった。

 凄い。

 つぐみは、本当に凄い。


 僕に、つぐみの半分ほどでいいから勇気があれば――そう思った。

 神様、どうか――。

 祈らずにはいられない。

 僕に、つぐみに近づく力が欲しい。

 勇気を与えて欲しい。

 この一瞬だけでいいから。

 どうか、僕を勇敢な男にして欲しい――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る