第15話 9月20日 夜の町を走る

 夜中に目を覚ました。


 隣で先輩が静かに寝息を立てている。蒲団を頭までかぶって僕の手を握りしめている。珍しいこともあるもので、いつも僕が起き出すとすぐ目を覚ます先輩が、今日は眠ったままだ。


 疲れているのかもしれない。

 先輩の寝顔はまるで母親に置いていかれてしまった幼子のようで、どこか寂しげに見える。


 ふと疑問が頭をかすめた。

 寝ぼけて頭にかかった霞が晴れていく。生まれた疑問が根付いていく。浮かんだ些細な疑問は勘違いかもしれない。理由ぐらいいくらでもつけられる。目が覚めるまで疑いもしなかった。


 納得しよう、と思った。

 何かがふに落ちなかった。

 何故、和泉が狙われたのか。


 美空先輩は夜属だ。狙われて当然だ。少なくとも百道先輩にとっては狙うだけの理由も理念も確かにある。

 けれど、和泉は人である。突き抜けていて、超越していて、不愛想で、ひねくれていて、可愛げの欠片もなくて、異様に年寄り臭くても、ただの人だ。


 仕返しだ、と思った。

 百道先輩は僕に対する復讐心を満足させようと、まわりの人間を無差別に狙った。異論の余地もないほどに十分納得できる理由だった。


 腑に落ちないのは百道先輩を知っているからだ。

 そんなに陰険な人だったろうか。


 つまらない思いこみだったのかも知れない。いい人だったと思っていただけかもしれない。僕の知らない百道先輩は無関係の人間を平気で巻き込む人なのかもかも知れない。

 結局、事実は常に小説より奇怪だ。


 待てよ。

 次を考える。


 一人目の次が二人目。二人目の次が三人目にならないという法則はない。黒い予感という奴が心臓のあたりにのさばっている。悪い想像が螺旋を描いて増えていく。今まで考えに至らなかった自分の馬鹿さかげんに腹が立つ。


 とうとう離してくれず、少し汗ばんでいる美空先輩の指をそっとほどく。起こさないように気をつけてベッドを抜け出す。


 無駄骨かもしれない。その方がずっといい。

 放り出したままの制服を着て、足音を殺してキッチンを抜け、音がたたないように祈りながら玄関を出た。


 たまには神様も仕事をするらしい。

 こんな時には僕を安心させてくれる未来の音は聴こえない。ままならなさに苛立つ。最悪の可能性が止める暇もなく頭の中を飲み込んでいく。

 百道先輩が笑っている。どこからか僕を見て笑っている。


 やってやる、と思った。


 百道先輩の狙う三人目が誰なのかわからない。

 虱潰しにすることにした。


 夜の道を全力疾走する。心臓破りの階段を駆けあがる。興奮している分だけ人間離れして、疲労も苦痛もたいして感じない。


「――何もない、みたいだ」


 耳をすます。

 聴こえた。


 いきなり当たりかと思った。

 割れた音が反響する。

 不協和音がリフレインする。


 敵意が興奮し、すぐに気がついた。それは今の音でも明日の音でもなく、すでに起こった音の残滓だった。つまり、過去の音だ。

 ここに、いた。それは間違いない。


 心臓が高鳴る。敵意がこみ上げる。深呼吸して心臓を押さえてそれを懸命になだめていく。


 注意深く、毛ほどの以上も見逃さないように目を凝らし耳をそばだて嘉上神社を一周する。

 わずかな残滓以外は残っていない。先輩を狙った時の名残らしい。


 どうやって、と首を傾げる。

 嘉上神社へやってきて、なわばりの中に踏み込んで、先輩を「傷つけて」生きて帰ったというのは奇跡のようなものだろう。


 確かにここにいた。

 それは確かだ。

 事実が小説より奇なりでも、それは事実がなかったことを意味するわけではない。


 やってやる、と思った。


 次につぐみの家に行く。

 その次は委員長の家をのぞく。

 伯父さんの家も行ってみた。

 何人かの知り合いの家を巡回した。

 どこにもアレの気配はない。

 残滓もない。予感もしない。

 どこも平和な夜だった。


 思案して、考えて、考えあぐねて首を傾げ、それからようやく一人の顔を思いつく。最後まで気のつかなったのが不思議な人物が脳裏に現れる。「がんばれ」という声を耳元で確かに聞いた。


 その瞬間には走り出していた。

 さすがに切れてきた息と尽きてきた体力にむち打って、これが最後だと自分に言い聞かせて、頼むからもう一度仕事をしてくれと憶えている限りの神様と悪魔に祈りながら、夜明け前の町を走っていく。


 綾乃先生のアパートについた時には、すっかり息が上がっていた。

 人間だろうが人狼だろうがものには限度がある。今夜だけでどれだけ駆け回ったかわからない。頭は万力で挟まれたように軋む。足は鉄の芯を入れたみたいでつねってみても感じない。

 どれだけ呼吸しても肺に酸素が入ってこないような気がした。


 急がなければよかったのだけれど、急ぐ理由があった。無事と安全を急いで確かめたかった。急いで確かめ急いで戻りたかった。

 そうすれば、もしかしたら先輩の目が覚めた時に何食わぬ顔で戻ることができて、先輩が一人で朝を迎えなくてもすむから。


 静かだった。

 夜明けが近い。風が強い。電線が震えて泣いている。暗い空と雲の背景を切り抜いた影絵のように、アパートは重々しくそびえている。


 15分ほどそうしていた。

 結局、何の気配も感じなかった。

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