第8話 7月1日 つぐみのご機嫌をとる
母親が逝ってしまった時も。
前に付き合っていた彼女と別れた時も。
僕がテンパっている時に、いつもつぐみは隣にいてくれる。
沈む気持ちを引き吊り上げたり、肩が落ちてたらバンバンどやしたりしてくれる。
馬じゃないんだから、もうちょっと人並みに扱うことはできないのかと思わなくもないけれど。
今度もつぐみの傍若無人に、僕は救われているのかもしれない。
……それにしても。
つぐみは完全にへそを曲げている。
ちょっと悪ふざけしすぎたかもしれない。
もっとも、つぐみのことだから今日のことだってすぐに忘れてしまうとは思うけど。
ここはちょっとばかり、ご機嫌をとっておいたって罰は当たらないか。
練習が終わるのを待って、『タラモア・デュー』でコーヒーでも御馳走してやろう。
試合の前、おまけに夏ってこともあって、水泳部はずいぶんと練習を頑張る。それこそ最終下校時間ギリギリまでやる。試験も近いというのに熱心なことだ。
割と夏でも涼しいこの山奥の小さな町で、プールの水温はすぐに冷たくなる。温水プールなんて槻那見町にはないから、シーズンを過ぎたら、電車に乗って隣町に遠征でもしないと練習ができない。
そんな訳で加賀瀬高校の水泳部はなかなかいい成績を収めることができないらしい。
中学生のころは、女子ではトップクラスの実力だったつぐみも成績が伸びずに悩んでいる。
高校に入るときには推薦で水泳の有名校にって話もあったくらいだけど、つぐみは断ってしまった。どうしてなのか、理由を聞いても教えてくれない。
水泳が好きなら、いい条件のところでとことんやればいいんじゃないかと思うんだけど、つぐみはそうは考えてないってことなんだろう。
正直、もったいないと思う。せっかくの才能なんだし、夢をもって打ち込んでいるみたいだから。
そういえば、どうしてつぐみはこの町に留まっているんだろう?
ああ見えても、意外につぐみは繊細な部分があるし、両親と離れて寮生活で暮らすのが寂しいのかもしれない。あれでって意見はあるけど、あいつほど家族を大事に考えているのはちょっと知らない。僕の母さんが死んだ時、一番泣いていたのはつぐみだったりする。
だからたぶん、そうだと思う。
そんなことを考えてる内に時間が経ってしまったらしい。部活から解放された生徒たちの声が校舎のあちこちから聞こえるようになった。
まだ明るい夏の長い日も、そろそろ赤く染まり始めている。
世界が、朱に染まる。
生あるもの、無きもの
朱にまみれたその先は闇だ。
もうじき夜の闇がやってくる。
「行くか……」
そろそろつぐみも着替え終わった頃合いだ。
鞄を肩にかついで扉を開ける。
ふと視線を上げた僕のその真向かい。
隣り向かいの教室の窓から。
こっちを見ていた。
あのひとがこっちをみていた。
心臓が跳ねた。
まるで正午の時計の針と針の重なり合うように。
カチリと音を立てて、目と目があった。
「あ……」
距離は離れているはずなのに。
まるでその惺眸が眼裏にでも貼り付いているかのように。
肌の冷たさの感じられるほど間近に思えて、目を閉じようとしても、反らそうとしても、どうにもならなかった。
ま、まずい……。
このままじゃ、まずい……!
何がまずいのかわからないのに、僕の心の中はマズイという言葉で一杯だった。
背筋を這い上ってくるクチナワのような危機感。顎に捕らわれたら僕はいったいどうなってしまうのだろうか。
確かだった過去も、確かだったはずの未来も。
地面に叩き付けられたガラスのように、微塵と砕ける感覚。
肺腑がしめつけられる。
心臓の音が早い。
呼吸すらままならない。
ざああああ。
音がする。体中の血という血が、引いていく音。
だ、だれか……。
このまま、僕がどうにかなってしまう前に……
誰か――!
そんな僕の声が聞こえたかのようだった。
「どしたの? 宗哉」
「あ……」
「まだ帰ってなかったんだ? 帰宅部だったらさっさと帰ればいいのに」
目をぱちくりさせるつぐみ。自分が何をしたのかに気付いてない様子だ。
つぐみが僕の前に立ったので、美空先輩は僕から見えなくなっていた。
偶然にもつぐみが僕の盾になってくれたらしい。
まるで関を切ったように、どっと汗が吹いた。
首を締め付けられて、死ぬ寸前にぱっと離されたみたいに、僕は、嵐のような息をついていた。
「と、どうしたの? 宗哉」
「つぐみ……」
「ん? 何? わっ!」
僕がつぐみを押しのけて向かいの校舎を見たときには、もう美空先輩の姿は何処にもなかった。
「ねえ」
「……」
「ねえ、宗哉」
「……………」
「宗哉ってば!」
「……え?」
「どうしたのよ! なンかおかしいよ?」
「……別に、どうもしないよ」
「嘘!」
「嘘じゃないよ。ただ……」
「ただ?」
ただ、何だろう。
いったい、どうしたのだろう。
あったことといえば、美空先輩と視線が合ったというただそれだけのことだ。
けれど――あの感覚はなんであったのか。
不安に似ていたような気がする。
恐怖に似ていたような気がする。
でも、どちらとも違うような気がする。
気がする、というのには訳がある。
先ほどの感覚が「わからない」のだ。
なにかが、僕の身体の内に生じたことも憶えている。異様な感覚を覚えたことも憶えている。
けれどその何らかの「感覚」をもう認識することができないでいる。
まるで目がなくなって視覚が失ったように。耳がなくなって聴覚が失せたように。
感じることができない。
僕はいやだった。
それは、異常なことではないのか。自分の身に、何か得体の知れない変事が起こっているのではないのだろうか。
誰にも話さなければ、ただの白昼夢で済むのかも知れない。
だけど、もしつぐみに話して、「夢じゃないよ」「本当だよ」なんて言われたなら――
僕は信じざるを得ない。
僕は異常であると。認めざるを得ない。
つぐみがその答えを持っているはずがないことはわかっていたけど。
それでも、やっぱり恐ろしかった。
言えなかった。
「何でもない」
だからこう答える他、仕方がなかった。
「ちょっと! なによそれ!」
つぐみが怒るのも無理はないだろう。
何でこうなるんだろう。
大体、僕がつぐみを待っていたのは悪戯が過ぎたからその機嫌を取るためじゃなかったのか? これでは考えていた方向と反対だ。
「ねえ、宗哉。あんたやっぱおかしいよ」
どきりとした。
普段聞くことがないつぐみの口調。
それに――
僕が、おかしい、だって?
「なんかあんた、朝からおかしいよ。どうしたの? 何があったの?」
「……おかしくない」
僕はおかしくない。
僕は僕だ。
狭山宗哉。
ただの高校生だ。
他の誰でもない。
「僕はおかしくない」
「おかしいよ!」
「おかしくない」
「おかしい!」
「おかしくないっ!」
自分でもびっくりするくらい大きな声だった。
「――――っ!」
僕は人を怒鳴ったことがない。
もちろん、つぐみに怒鳴ったこともない。
だからこれは初めてのことだった。
「僕は、おかしくなんか、ないんだ……っ!」
初めての声の調子で、僕は言った。
僕自身に言い聞かせるように。神かなにかにでも祈るように。
そうでもしないと、この得体の知れない感覚に、耐えられそうになかった。
その時、僕はつぐみに対してどんな顔をしていたのだろうか。
「あ……」
つぐみを見てからようやく思い至った。
「知らないっ!」
「つぐ……」
駆け出すつぐみ。
呼び止めることなんてできるはずがない。そんな権利は僕にはない。だって今のは、一方的に僕が悪かったのだから……。
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