第7話 7月28日 大胆 水着ショー

           過

           ぎ

           去

           り

           し

           日


           早

           春


 季節の巡りは早いもので、春と呼ぶには少し足りないけれど、もうすぐ二年に進級するという頃にいつの間にかなっていた。

 三年の教室がある四階から勢いよく駆け下りてくる足音はきっと彼女に違いないと、根拠もなく僕は確信する。


「――どうだったって聞かないの?」


 背中から僕の首に飛びついてきて、そんなふうに囁いた。彼女のやわらかさとシャンプーの香りは僕にくらくらと眩暈めまいを命じる。


「おめでとうございます、先輩。……顔見ればわかるから」


「そうかな? ……そっか」


 後ろ手に腕を組んで、照れたように身体を離す。


 見かけるたびに彼女は新鮮で、いまだ僕には彼女のことがよくわからない。

 最初は大人びた人なんだって漠然と思っていたけど、屈託のない子供みたいに微笑うこともあれば置物の日本人形みたいな顔で座っていることもある。


 わかったふうな口を利くと、この年頃の一年、二年の年齢差というのは、手が届かないくらい果てしなく大きくて深いようだ。

 彼女は僕よりふたつ年上で、おまけに……というより当然の事ながら、女の人だった。

 精神年齢は女の方が高いっていうから、ますます差は開いてしまう。


 それでもその差を何とか埋めたくて、必死になって追いつこうと背伸びをする。

 けれど、何かあるたびに彼女は僕のことをふわふわと軽くあしらうわけだ。

 あしらわれる自分はそれほどキライじゃなくて、どこか心地良いのが不思議だった。


 結局、別居してしまった僕の両親は十年の歳の差で結婚したそうだけれど、歳を取るとそれぐらいの差なんて埋めてしまえるんだろうか。


 やっぱりわからない。

 わからないはわからないなりに、なんとかしてわかろうとする。そういう益体もない過程が、最近では僕なりに気に入っていた。


「三崎高か。進学高だから、さ来年に僕が受けてもちょっと無理かな……」


「――むー。宗ちゃん、わたしと同じ高校に行きたくないの?」


「いや、そーじゃなくて、現実的な話で」


 追いかけていっても、同じ校舎に通っていられるのはほんの一年ほどでしかない。

 追いつけないんだなぁと、何となく思い知る。


「努力しないうちから諦めてどうするの。しっかり勉強して、同じ高校に行きましょう。でも……今はわたしの合格祝いの方が先かな」


「そうだね。放課後にどこか行こうか。ファーストフードかカラオケくらいだけど、先輩はどっちがいい?」


 すると、いつものように頬を膨らませて、彼女は僕を睨む。


「あのねぇ、宗ちゃん。いつまでも「先輩」なんて呼ばないで」


「えぇ、でも……」


 さすがに恥ずかしくて先輩の顔がまともに見れない。


「でも、じゃないでしょっ。彼氏彼女なんだから、きちんと呼びなさい」


「え………………ぉ」


「き・こ・え・な・い」


「…………みお」


「はっきりと」


「……水緒」


 そんなふうに、「よくできました」と言いたげに笑いかける彼女はとても優しくて、日向に干した蒲団みたいに僕を待っているような気がいつもした。


「……それで、どこ行こうか」


 と。

 戸惑うような表情を彼女がする。

 はにかむような、照れたような、そんなふうに頬を染めた彼女は、手を後ろに回して少し俯いて、ちょっとの間黙ってしまった。


「あの……」


「なに」


「あのね――」


「うん」


「……夕食、わたしの家で食べない? 今日、ウチの親いないんだ」






           今

           あ

           り

           し

           日

           々


           夏


 真夏の日差し。水音。

 景色が万華鏡のように飛び散る。降ってくる水が頬にかかるけれど、それもすぐに乾いてしまう。


「えー、だってあたしらの番じゃないのさー」

「もうー、ちがうんだって。だからさ、私がそうじゃないって言ったのよ――」


 あたりから嬌声めいた声がとてつもなくかしましくて、僕に今の季節というものを目をつぶっていても意識させた。


「……何も知らない」


 先にひと泳ぎしてプールサイドにたどり着く。


 ――琴乃がっ


 琴乃梓先輩は、とてつもなく世話好きな人だ。

 世話をするのが人生の使命だって考えているんじゃないかというくらいで、学校にいるときはいつも世話を焼く相手を捜して歩き回っている。


 琴乃先輩にしてみれば、一般常識に欠けたところのある美空先輩は、きっと無性に世話焼きの血を奮い立たせてくれる相手なのに違いない。


 美空先輩はあんな人だから友達もいなくて、なんだか学校では孤立気味だったりする。

 けれどそれを気にしているのは本人よりもむしろ琴乃先輩の方で、今のところめげずに美空先輩とつき合っているのは、僕を除けば彼女一人だと思う。


 彼女はあの日のことを何も憶えていなかった。

 自分が授業中に抜け出したことも、バケモノに襲われたことも、そのバケモノを僕と先輩が仕留めたことも、何一つ記憶に留めていない。

 だから、彼女は今もさっぱりと笑って、変わらず元気に毎日慌ただしく走り回っている。


「知らない方がいいこと……」


 自然にもれた呟きは、奇妙な感慨をもたらした。

 僕はもう人間ではない。


 ――バケモノだ。


 目映いほどに煌めく昼の光の届かないところ、騒がしい声の届かないところ、そこには今も脈々と人ならざる怪の世界が広がっている。


 人外、怪、バケモノ、夜属――。


 けれど、そんな事実は誰も知らないから、誰もがにこやかに笑いながら僕のそばを通り過ぎていく。


「お待たせしました」


「へぇ…………」


 今日はいろいろと新しい発見が多い。

 開いた口が塞がらないなんていうさっきの二の舞だけは演じなかったけれど、これはまた、なんだかいろんな意味で予想外だ。


 美空先輩は赤いワンピースの水着を着ていた。

 ほっそりとしているけれど、あるところにはある身体のラインがよくわかる。

 恥ずかしそうに俯いているのが、いつもと全然違っていて、すごくいい。


 美星ちゃんは……スクール水着。

 子供っぽい美星ちゃんにはよく似合ってる……っていうか、ちょっとこれは反則気味だ。

 名前こそついていないものの、学校指定のものなんだろうかと一瞬疑ってしまう。


 綾乃ちゃんこと佐倉綾乃先生は黒いビキニ。

 教壇にいるときの野暮ったくて危なっかしい姿からは、この水着姿はとてもじゃないけど想像できない。胸とか腰とかが、否応なしに強調されていて、目のやり場にすごく困る。

 あの綾乃ちゃんが、脱ぐとこんなにすごい人だったっていうのはこの夏一番の新発見だ。


「狭山君。先に泳いでるなんてずるいわよ」


「いや、その……」


 綾乃先生が屈むと窮屈そうな胸の谷間が目の前にちらついて、ますます水からあがりにくい状態になってしまう。

 男ってつくづく単純だ。


 綾乃先生がここにいるのは偶然で、リニューアルオープンしたこのプールに遊びに来ていたんだそうだ。だけど、たまたま僕らを見つけて聖職者としての職業意識に火がついた――と本人はおっしゃっている。


「ねぇ、狭山君」


「なんですか」


「不純異性交遊はだめよ」


 ぐぅの音も出ない。


 さて、どれもこれもいいけれど、やっぱり――

 美空先輩の清楚さがナイス、だと思う。


 いつもの美空先輩とのギャップがあっていい。新たな魅力発見ってな感じだ。

 恥ずかしそうで伏し目がちな様子とか、怯えた子犬みたいに周りを見回してるところとか、意外に着やせする体つきだったんだなぁとか。

 そういうところがストライクゾーンにびしっと決まって…………。


「宗哉……くん」


 先輩は僕の視線に気がついたけれど、抗議の声をあげるのも恥ずかしいのか、それ以上はなにも言わずに目を逸らす。


「…………先輩」


 ごくっと喉が鳴ってしまった。

 その儚げな仕草は、人狼でなくたって心のケモノが騒ぎ出しておかしくない。

 きっと、こんな様子の先輩を見ていたら、裁判官だって僕のことを情状酌量してくれるに違いない。

 この場で後ろから抱き締めて、手折ってしまいたいくなる。


「――狭山君。不純異性交遊はダメだからね」


 ……先生がいなかったら本当にそうしていたかもしれない。

 危ない危ない。


 まさにプール日和。

 燦々と照りつける太陽と冷たい水の共演。


 プールの入場券をくれた黛に感謝したけれど、自分で行かないくせに三割引で売りつけるとは相変わらずいい性格っぷりを発揮している。


 今日一日で美空先輩と美星ちゃんが少しでも仲良くなってくれることを祈りつつ、僕もまた水の中に飛び込んだ。

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