第9話 9月21日 ノロイ忌との対峙

 必要な情報はすべて揃った。

 これはきっと僕でなければ集めることのできないことで、おそらく相手にとってもこんな方法で自分のところに辿り着くとは思っていなかっただろう。


 答えはすでに出た。

 だからあとは僕がその決着をつけるだけだ。

 僕の手で――

 この物語の結末をつける。


「……なあ、狭山」


 降り続く雨によって世界はひとつの音に満たされていたけれど、それを打ち壊したのは百道裕吾先輩だった。


 鷹揚な笑顔で僕を見ているけれど、かすかな違和感がある。

 いつもまっすぐに相手を見つめる意思のあった瞳が、まるでガラス玉になってしまったかのような空虚さを感じさせた。


「この携帯、二つ目でな。こっち側の番号、知ってるやつは本当に少ないんだよ。……お前、どうやって聞き出したんだ?」


 心底不思議そうに聞く。


「……誰かから聞き出したわけではありません。聴こえたんです。もちろん、番号がではなくて、先輩の声がですけど」


 それがネタばらしだ。名探偵が犯人を追い詰めるためのショーの始まりだった。


「聞こえた? どこから」


「――疑問があったんです、ずっと。小さな、ほんの小さな疑問で、確かめてみようと思ったのはほんの少し前のことでした」


 先輩は黙って、口を挟もうともせず聞いている。


「水緒が……朝比奈水緒がこう言ったんです。

『わたしたちは〈死〉を喰うの』。

『わたしたちはね、たぶん、生から死へ変化する、そういう意味を喰らっている』。

 どうして『わたし』ではなくて、『わたしたち』なんでしょう?」


 それはかすかな違和感だった。


「僕が『こちら側』に来てしまった時は、いろいろと教えてくれる人がいました。少なくとも手を引いてくれる人はいました。

 すると、水緒も誰かから教わったんでしょうか。自分のことを。自分たちのことを」


 ――僕には美空先輩がいてくれた。


「きっと誰かがいたはず……そんなふうに思って、水緒と、杣木さんと、それから日比谷さんのことを調べてみたんです」


「――調べても何も残ってるはずないよな」


 僕はうなずいた。


「普通はね。でも、聴こえるんです。僕にはそういう能力があるんです。いうなれば――『世界に現象する音を聴く』能力。

 少し前に人の想念が聴こえるようになりました。ずっと、唐突に聴こえてくる声は想念なんだろうって漠然と思い込んでいたんですけれど、そうではなかったんです。正確にはそれだけではなかったってことです。

 現在と、過去と、未来。時間というものが僕にとっては聴こえるみたいなんですよ。僕が聴いたのは『記憶』……現象が記録する過去時の音、記録された想念でした。

 3人の遺品の中に携帯電話が残っていて、それらはすべて先輩の声を『記録』していました。あとは3人の携帯のアドレスに共通する番号を調べてみたんです」


 それが今回の事件の真相であり、これが僕の調査方法だ。

 誰にも真似のできない、僕だけにしかできないアプローチだった。


「……なるほど。お前の冷静さとその能力があればここまでたどり着くのはあながち不思議ではなかったわけか。

 俺はな、狭山。お前のことを高く買っている。お前は自分が知らないだけで、さまざまなものを持っているんだ。それを活かそうとしていないのが俺には不思議だったよ」


 百道先輩の告白は僕の表面を滑っていく。

 ジリジリと間合いを詰めようと足を進める。


「だけどな、狭山。今のお前では俺を倒すことは絶対にできないんだよ」


 いつの間にか、百道先輩は本を持っていた。どこから取り出したのかすらわからなかったそれは、分厚い表紙と幾枚も重ねられた白い紙の束のありふれた本だというのに、なぜだか目を逸らすことができなかった。


「俺の能力を説明していなかったな。だから、教えてやるよ」


 百道先輩の姿が遠くに霞む。

 手にもった本からこぼれ落ちる紙がばらばらと舞い散り、僕と先輩の間にある空間にあふれていく。紙の吹雪の向こうで、百道先輩が怪しく微笑む。


「この本が気になるだろう? どうしても目が離せない。戦うべき相手は俺だというのに、この本がどうしても気になるんじゃないのか?」


 意図がわからず、睨みつける。

 先輩の言うことが事実だったからだ。


 バラバラとさらに紙が散る。

 やけに音が遠い。さっきまで聞こえていた雨の音すら届かない。包み込むように紙が舞っている。


「これはな、お前自身だ」


 ――なに?


「この本は、狭山宗哉なのさ。だから気になる。自分のことなのだから気になるのは当たり前のことだろう?」


 バラバラと紙の音がうるさかった。


「だから俺は、お前という存在にあった可能性を変えてしまうことができる。わかるか、この意味が。お前は俺の掌の上で踊っているに過ぎないってことなのさ。たとえば……そうだな。こういうのはどうだ?」


 ひらりと一枚の紙切れが宙を舞い、僕の右腕に貼り付く。途端に激痛が右腕から発して、ぶつんと何かが切れる音が聞こえた。

 まったく動かない。まるで意思から切り離されてしまったかのようにぴくりとも反応しない。痛みのみが僕の所有物であることを伝えてくる。靱帯か何かが切れたみたいだった。


 驚きが表情に出たのだろう。一度、大きく咳き込んだ後、百道先輩は笑ってみせた。


「これはお前に起こり得る可能性の一つだ。言った通りだろう? だからお前は俺には勝てないってわけさ。理解したのなら、おとなしくしていろよ。苦しませるのは趣味じゃない」


「……たしかに、強力な能力ですね。だとすると、さっきから飛び散っているこの紙はさしずめ僕の可能性といったところですか?」


「ほう、察しがいいじゃないか。その通りだよ。これらはすべてお前の未来の可能性を示しているものだ。お前にはこれだけの可能性がある。未来があるってことだ」


 百道先輩はいつものように笑ってみせた。


「でも、先輩の能力では未来を書き換えることまではできない」


 目つきが鋭くなった。図星だったのだろう。


「だから未来の可能性であるその紙を本からこぼれ落として奪うことによって、僕から選択肢というものを奪っていく。つまり、先輩に操作することができるものは、僕から未来の選択肢を奪っていくことと、すでに存在する幾通りかの未来から僕にどれかを選ばせること。その未来の書かれたページを僕に貼り付けることによってその道筋を決めること――ですね」


「さっきの調査方法といい、今の洞察力といい、お世辞抜きにお前はすごい奴だよ。でもな、だからこそお前はここで倒しておく。俺はまだまだ化け物どもを殺さなければならないからな。……いや、化け物というのなら、俺だって同じようなものか」


 苦い形に口元が歪む。


「忌ですよ、先輩は」


「忌っていうのか、俺たちは」


 僕がうなずくと、先輩も諒解したというような表情をした。


「それでも、俺は思うのさ。化け物にだってな、生きる権利ぐらいはあるだろう? いや、人間が生きるのと同じぐらいにはあるはずだ。目的を果たすまではな。お前を殺すのは忍びないが、俺には俺の目的がある。だから、お前はここで死んでくれ」


「おおおぉぉぉぉ!」


 雄叫びを上げながら、動かない右腕の代わりに左腕を振りかざす。一瞬にして距離を詰める。


 そのときだった。

 不意に飛び込んできた音が――






 ――なんだろう、このチビは。

 そんなふうに最初は思った。


 はじめて見た中野なかの敦子あつこは俗にいう不良で、少なくとも登校拒否というよりも家出少女のカテゴリーに入っていた。背も低かったし愛嬌はあったが、美人とは呼べない。

 だから、悪友と遊びに出た時にほんの偶然からなつかれるようになっても、最初に感じたのは迷惑だけだった。きっとすぐに忘れてしまうんだろうなんて、さっさと頭の片隅にしまいこんでしまった。


 昔から勉強もスポーツもそこそこできたし、要領も良かった。典型的な――面映いが――俺は優等生というやつで家庭も円満。取りたてて不満もなかったし、頭の悪い連中がしたり顔で呟く生きている実感がないなんていう戯言には興味も縁もなかった。


 まぁ、実感がないっていう馬鹿どもはともかくとして、世の中、今日明日も知れない不幸なんてものはたくさんある。

 俺のは、所詮、満足しているからの余裕なんだとそんな簡単なことすらその時は気づくこともできずに、ただ何かと深刻な顔で騒ぎ立てたりする連中を馬鹿を見るように見下していた。


 俺にはたくさんのものがあったけれど、敦子には何もなかった。学校にもろくろく行っていないのだから勉強ができるはずがない。要領も悪いし、家庭にはアル中の父親と離婚寸前の母親が怒鳴るために待ちわびている。

 すばしこいのだけが取り得な程度だ。


 俺が生まれつき持っていたものの半分も彼女にはなかっただろう。

 けれど彼女は俺よりもずっとずっと元気で、ひたむきで、驚くことにまっすぐだった。


 一直線に飛行機みたいに走ってくる姿が最初は鬱陶しく、そのうち目で追うようになり、姿を見せない日は不安をかきたてられるようになった。

 いつから彼女が俺を丸ごと貫いていたのかはわからない。気がついたとき、それが不快でないことに驚いて俺はベッドの中で朝までまんじりともできずに天井を見ていた。


 ある日、彼女が来なかった。

 次の日も、次の日も、その次の日も来なかった。


 そうなってみて初めて、彼女の電話番号も知らなかった自分に驚きながら、きっとそんなものも必要なかったんだろうと納得してもいた。

 だから、人づてに彼女が死んだと教えられた時、きっと俺の中でも一緒に何かが死んでしまったのに違いない。


 彼女は何かの事故に巻き込まれて死んだ。

 遺体は損傷がひどくて原型もとどめていなかったそうだ。

 即死だったらしく、それが唯一の救いだ。


 救い…………救いってなんだろう。


 どうして彼女が死ななければならないのか、それが俺にはわからなくて何日も考えていた。だが、公式を解くような解答はどこにもありはしなかった。


 後になって俺が知ったのは、敦子を殺したのは人間ではない、バケモノだということだ。

 正確には殺してさえ、殺したと思ってさえいないだろう。


 彼女は何も知らずに偶然近づいて、バケモノどもの騒ぎに巻き込まれ、無力で儚い人間らしくゴミのように死んでしまった。

 たったそれだけのことで、彼女にあった未来も夢も希望も願望も、何もかもが一瞬にして煙のように消えてしまった。


 死は平等だが、その平等という構造は驚くほどの不条理で造られている。


 そんな許せないことがあるだろうか。

 彼女は何をしたわけでもない。

 彼女に死ぬべき理由はどこにもない。


 けれど、あまりに突然に、あまに不条理に、あまりに絶対的に、彼女は死んで返ってこない。

 そんなことは絶対に間違っていると、

 間違っていなければならないと、






         俺は思う。






「狭――」


 地を蹴って――ためらった。

 今のはなんだったのか。

 未来時の声――違う、そんなものではない。

 意識の声――いや、そんな感じではない。

 あれは「記憶」だ。

 百道先輩という現象が記録する過去時の声。


             「―――山ぁっ!」


 刃物のような忌の爪が走る。

 とっさに大きく避けて体勢を崩す。


 窓ガラスを破って百道先輩が校庭へ飛び下りる。

 全て、我に返るまでの一瞬の出来事だ。


「――先輩っ!」


 破れた窓から雨が降り込んできた。

 僕が駆け寄ったときには、もう、見える範囲に百道先輩の姿はなかった。


「百道先輩――」


 呟いた。

 正直、追いかけるのをためらっていた。

 意識の声……そんなものを聴いてしまったからかも知れない。


 それでも。

 今度会った時――


 彼は僕を殺すだろう。

 僕は彼を殺すだろう。


 永遠に交わらない平行線。

 どちらかしか残らない、簡単な計算式だ。


 雨の音がうるさい。

 どんなものでも包み込んでしまうような雨の音が世界に満ちてくる。


 ひたひた、ひたひた。

 寄せては返す波のように、着実に、少しずつ、包み込むように迫ってくる。


 僕は雨の日がきらいだ。

 雨の日には悪いことしかやってこないのだから。

 雨の音に包み込まれてしまって、世界がひとつの音だけに収束されてしまう。


 だから、聞き逃してしまった。

 致命的な旋律を――。


「――――っ?!」


 雨に混じって悲鳴が聞こえた。


「そんな、まさか……そんな!」


 考えも無く僕は階段を駆け下りる。

 なんて――。

 なんて走るのが遅い足――。


 焦りと狼狽と、そして繰り返される後悔。

 あの場で百道先輩を殺しておけば良かったのかと……その思いが胸を抉る。


 今の悲鳴。

 それは聞き覚えのある声だ。

 間違いない、美星ちゃんの声だった。

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