第10話 9月21日 少女の想いは世界を食む
美星ちゃんが、美星ちゃんが倒れている。
あれからずっと忘れられなかった。
あのときの横顔を忘れることはできなかった。
僕はただ目の前のことだけを見つめて、美星ちゃんのことを考えないようにしていただけだ。ふたをして、遠ざけて、これ以上僕が傷つかないために逃げていただけのことだ。
それなのに、どうして――
目立った外傷はない。出血も……ない。
ただ眠っているように目を閉じているだけだ。
かすかな吐息。小さな口からこぼれ落ちる息が美星ちゃんが生きていることを証明していた。
ほっと胸をなでおろす。そのときになって、ようやく最悪の事態になっていないことを理解した。
世界がにじんでいく。不覚にも泣きそうになってしまった。慌てて掌で目元をこする。まだ泣いている暇なんてない。どこに百道先輩が隠れているのかわからないのだから。
あたりをぐるりと見渡す。
耳を澄ます。
たとえどんな小さな音も聴き漏らさないように集中する。絶対に逃がさない。
美星ちゃんを危険にさらしてしまった自分への後悔の念と、美星ちゃんを襲おうとした百道先輩への怒りの気持ちがぐずぐずと心の底で渦巻いているのがわかる。
それをなだめ、すかせ、音に集中する。
目を瞑ると雨の音は遠くなっていった。
忌のノイズめいた音は聴こえない。
世界がひび割れるような独特な音はとても覚えやすくて、かつ聴き取りやすい。だから絶対に聴き逃さない。
とくりとくりと聴こえてくるのは美星ちゃんの鼓動の音か。ゆっくりとした、穏やかな心音が僕のささくれだった心を癒してくれるかのようだった。
どうやらこの近くにはいないらしい。
僕は目を開ける。遠のいていた雨の音が蘇り、世界はまたその音に包まれる。
いつまでも冷たい床に寝かしたままでいいはずがない。美星ちゃんの小さな頭をそっと抱き起こす。
美星ちゃんはかすかに身じろぎをした。それからゆっくりと瞳が開かれる。
少し濡れたような瞳。とても綺麗で、とても澄んだ瞳が僕のことを見つめている。黒目勝ちの瞳に僕の顔が映っている。どこか心配げな顔をした僕の顔が――歪んでいった。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
小さな手が差し伸べられる。その手を僕はぎゅっと握り締めた。もう安心だよという気持ちを込めて小さな手を包み込む。
「こ、こわいのです……わ、私はいったい、ど、どうしてしまったのかと……」
美星ちゃんの震えが僕にも伝わってくる。よほど怖い目にあってしまったのだろう。
美空先輩とのことがあって不安定だったところに、いきなり忌が現れたのだとしたらこの混乱もわからないではない。
だから、もう大丈夫だとできるだけ優しい顔で微笑みかける。
危険な目にあわせたのがすべて自分のせいだと責める声がどこかから聞こえてくるけれど、それを今このときだけは無視をする。
そうやって自分を責めるだけで物事は解決しないことを知っているから。まずはできることをする。後悔するのはそれからでも遅くはない。
「安心して、美星ちゃん。もう怖いことはないから大丈夫。僕がそばについているから心配しないで」
身体を支えている腕に力を入れる。
それなのに美星ちゃんの震えは止まらない。僕の言葉がまるで届いていないみたいに、いやいやと首を振り続ける。
「ち、違うのです。わた、しはいったい、どう、なってしまったの……で、しょう」
「落ち着いて、美星ちゃん。大丈夫。僕がついているから大丈夫なんだよ」
むずがる赤ん坊のように、僕の腕の中で身体を震わせる美星ちゃんの気持ちを思って
「わた、し……かわくん、です」
何を言いたいのかわからない。けれど、震えているからそれを支えてあげる。それしかできないのだから、しっかりと力を入れて支える。
「私が、私でなくなるのです。もう、ダメ……」
「もう怖いことはないよ。僕が護る。君を護ってみせるから」
ぴたり、と震えが止まる。
「ま、も、る」
「そうだよ。もう美星ちゃんを危ない目には遭わせない。僕が必ず護ってみせる」
どこか遠くを見るような目をして僕のことを見上げたかと思うと、美星ちゃんはそっと目を伏せた。その仕草がやけに投げやりに見えたのは、僕の気のせいなのだろうか。
つぅと美星ちゃんの瞳から涙がこぼれ落ちた。
こんなときなのに、とても綺麗な滴だなんて思った。それはどこまでも透明で、光り輝いていて、美しかった。女の子の涙って綺麗なんだ、なんて心のどこかが妙な感心をしているのを自覚する。
「む、り――です」
ぽつりと。
それはすべてを諦めてしまったかのような深い悲しみの音色を伴った告白だった。
「い、いやです。こんなのはイヤ。どうして私はこんなことを望んでしまうのですかっ。お願いです。もう、もうやめてください!」
美星ちゃんは突然僕の腕の中で暴れだした。
「落ち着いて! もう大丈夫だから。もう怖いことはないから」
「ダメ! お兄ちゃん、離して。このままでは、私は取り返しのつかないことを……」
必死になって細い腕で僕を押しのけようとする美星ちゃん。
けれど、小柄といっても僕は男だし、美星ちゃんはそんな僕よりもさらに小さい女の子だ。とてもではないけれど僕を押しのけることはできなかった。
それに今ここで手を離すということは、あの日の繰り返しになってしまうのではないかという恐怖心に僕は捕らわれていた。だから、絶対に手を離すわけにはいかなかった。同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
「離れないよ。僕は美星ちゃんから離れない。ずっとずっとそばで護るって決めたんだから」
ぽかぽかと小さな手が僕の胸を叩く。それは全然痛くなくて、むしろ遊んでいるのではないかと思ってしまうほどだった。
左手で、その小さな手を包み込む。
美星ちゃんは涙で濡れた瞳で僕のことを見上げている。そんな美星ちゃんの顔を見ていられなくて、もう一度そっと抱きしめた。
「どうして、私はこんなことを……どうしてこんなことになってしまったのでしょう……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………」
それは罪を犯した者の懺悔めいた呟きだった。
小さな肩。日向の匂いのする黒い髪。透き通るような白い肌。つぶらな瞳。細い腕。どれもが僕の好きな美星ちゃんの大切なものだった。
ずっと美星ちゃんのことは本当の妹のように思ってきた。きっと、理想の妹っていうのはこんな娘みたいなんだろうなって、できれば本当の妹だったらよかったのになんて思ったこともある。
ずっとずっと美星ちゃんは僕の後ろをついてくるように歩いていて、でも、その距離が一歩ずつ縮まっていって……そんな微妙な距離感に少しだけドキドキし始めた頃に美空先輩が帰ってきて。
美星ちゃんはお姉さんである美空先輩のことが大好きで、僕のこともその先輩と同じぐらい好きでいてくれたみたいで。
なんて可愛い子なんだろうと僕は思っていた。ずっとずっとそんな関係を保ちつづけることができたらどんなに幸せだったのだろう。
一般人の感覚とは少しずれている先輩と、そんな先輩の面倒を嬉しそうにみている美星ちゃんと、その二人の様子を見つめている僕と。そんな幸せな光景がずっと続いてくれたらなんて夢を見ていた。
「姉様とお兄ちゃんと私と、三人がずっとずっと一緒にいられる夢を見ていました。それが叶うのでしたら、私はすべてを捨てても構わないと思っていたのです」
耳元で美星ちゃんのかすれるような声が聞こえている。それは美星ちゃんの夢。そしておそらく、僕の夢でもあるのだろう。
「私はダメな子です。父様にも見捨てられるような子なのですから」
捨て鉢な告白を聞いていられなくて、もっと力をいれて抱きしめた。そんなつらい言葉は――壊れた音色は聴いていたくなかった。
「あの夏の日。姉様とお兄ちゃんと三人で遊んだ毎日が夢のようで、私は永遠にその日が続いてくれることを願っていました。けれど……姉様が連れ去られてしまったのです。お兄ちゃんもいなくなってしまって、私は独りぼっちになってしまいました」
夏の日とはなんのことだろう。
美空先輩と僕と美星ちゃんが遊んだことがあったということなのか。
たしかに、僕は幼い頃の夏の日にこの町へ来たことがある。もう随分昔のことで細かいことは覚えていないけれど、もしかしたらそのときに美星ちゃんたちに会っていた可能性は否定できなかった。だったら、美星ちゃんの言っていることは正しい。
「そうだね、そんなこともあったね……」
だからそうつぶやいてうなずいてみせた。
美星ちゃんの身体が小さく震えている。どうやら笑ったらしい。
ああ、よかった。あんなに哀しそうな美星ちゃんの顔を見ているのはつらかったから。美星ちゃんはやっぱり笑顔のほうがずっと可愛いと思う。
「だから私は独りで待ちつづけたのです。姉様が帰ってこられる日を。お兄ちゃんが戻ってきてくださる日を。お兄ちゃんが戻ってきてくださったのを知ったときはとても嬉しかった。あの日と同じように『お兄ちゃん』って呼んだら、お兄ちゃんがきょとんとした顔をされたのです」
ああ、そうだったね。見覚えのない女の子に「お兄ちゃん」なんていきなり呼ばれたら普通は驚くものだ。けれど、美星ちゃんの言うように、幼い頃に遊んでいたのならそれは普通のことだと思う。やっぱり、美星ちゃんが正しい。
「ごめんね。実は覚えてなかったんだ」
「ええ、わかっていました。けれど、今は思い出してくれているのですからいいのです。私ひとりの思い出では寂しいですから。お兄ちゃんと姉様と一緒でないと、私にはダメなのですから」
僕の背中に回された手に力が入る。もう離さないというようにぎゅっと抱きしめられた。
美星ちゃんの鼓動が伝わってくる。暖かくて穏やかな、美星ちゃんの心根そのままのリズム。触れ合っている肌が溶け合って、ひとつになっていくかのような感覚。
「姉様が帰ってこられると連絡があって、私は本当に嬉しかったのです。これであの頃のように一緒に遊べると思いましたから。これからは独りではなくて、姉様とお兄ちゃんと一緒にいられるって思いましたから。けれど、帰ってこられた姉様は、私の知っている姉様とは違うみたいでした。どうしてなのかわかりません。どこか怖かったのです」
だから私はダメな子なのですという言葉はかすんで消えた。
どうしてこの娘はこんなにも自分ばかりを傷つけるのだろう。どうしてこんなにも変わらないでいられるのだろう。
どこまでもひたむきで、まっすぐで、健気で。どうしてこんなにも純粋でいられるのだろう。
「実は、美空先輩はね……いや、僕もなんだけれど……」
「ええ、もう存じ上げています。人ではない――のでしょう?」
なぜだかその言葉を聞いた瞬間、背中が寒くなった。ぞくりとした悪寒が脊髄を這い上がっている感覚がやけにリアルで、思わず身体が震えた。
「だから姉様は私を遠ざけになっているのだと理解をしました。人と人でないもの――それでは一緒にはいられませんものね。だから姉様はあの頃とお変わりになっていないのだとわかりました。私のことを気遣って、わざと遠ざけているのだと知ってとっても嬉しかったです」
この震えはどこからやってくるのだろう。美星ちゃんの告白を聞くたびに、僕の身体がおこりのように震える。
「けれど、私も人でなくなればいいと、そのときに気がついたのです」
……違う。それは間違っている。
美星ちゃんは昼の世界に生きるべきで、決して夜の世界になんて足を踏み入れちゃいけない。この世界はどこまでも暗く冷たい世界なのだから。君のような優しい娘には似合わない世界なのだから。
「そうすれば、姉様も私のことを遠ざけずにすむ。ずっと一緒にいられる。だから、私も人ではないものになりました。これでずっとずっと一緒にいられる。私が姉様とお兄ちゃんと同じ場所に立てば、一緒にいられるのですよね」
理解できない。
美星ちゃんが話していることがわからない。
受け入れるのを心が拒否している。
ダメだ。
絶対にダメだ。
そんなバカなことはあっちゃいけない。
美星ちゃんが――
「私は心からそれを望みました。人ではなく、姉様やお兄ちゃんと同じ存在になれるようにと。その望みは叶えられました。だから私は、とても嬉しいのです。これからずっとずっと、三人で一緒にいられるのですから。あの楽しかった夏の日が戻ってくるのですから」
ああ、そんな――。
どうしてこんなことに――。
美星ちゃんが――
忌だったなんて――。
「もう、私は迷いません。姉様とお兄ちゃんと一緒にいられるためなのでしたら、どんなことでもやってみせます。その覚悟ができました」
ありがとうございます、と言ったのだと思った。
僕がぼんやりしている。
はっきりと自分を把握できない。
どこまでが僕で、どこからが美星ちゃんなのかわからない。
それはまるで、ひとつに溶け合っていくかのような感覚。
「ほら、こうすれば私とお兄ちゃんはひとつです。ずっと一緒にいられます。この能力があれば、私たちはひとつになれるのです。あとは姉様も取り込んで、私の中で一緒に暮らしましょう」
美星ちゃんの意識が僕に流れ込んでいる。
僕の意識が美星ちゃんに流れ込んでいく。
なるほど。これがひとつになるということか。
なんと甘美な感覚なのだろう――。
「これからもずっとずっと一緒にいてくださいね、お兄ちゃん――」
s34述懐―wakare―――終了
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シナリオ/ 無明ヲワル
シナリオ補佐/ 卯月桜
中野敦子[なかの・あつこ]
加賀瀬高校の三年生。
不器用で勉強ができるほうではなかったが、元気がよくて押しが強くて相手を巻き込む魅力があった……らしい。
本人が自覚していなかっただけで、百道は彼女に心惹かれていたのであろう。
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