第2話 8月22日 夜を歩く少年[三人称視点]

 おーんおんおん。


 遠い、どこかで、獣が吠えた。

 月に吠えているのだと、確信もなく思った。


 外れかけた扉が、壊れそうな音を伴奏に開いた。

 戸口の向こうに開いた闇にはきっと誰もいないに違いないと、確信もなく思った。


 予感は外れた。

 人が――いた。


 雲が去り、月がこぼれていた。

 背負った月光が影法師を伸ばす。


 ぬるい風に、我を忘れて少女を貪っていた男たちが、そろって顔を上げ、息を飲んだ。


 影は少年であった。

 自分たちよりも明らかに年下だ。

 最初の印象がどこか少女めいていたのは、背が低いのと、童顔のせいである。


 ――戸口の外には何がいるのか

 一瞬前に感じた、不吉な通りものは去った。


 男たちにとって少年はもはや獲物に過ぎない。

 狼の狩場に迷い込んだ愚かなウサギだ。


 ごお、と獣たちが吠えた。


 少女から離れた男たちは、人であったことも忘れたかように、身体を前に倒し、両手をつき――獣の姿勢で少年を取り囲む。

 少年は逃げる素振りも見せなかった。

 むしろ、少年を取り囲む獣の輪が立ち止まる。


 獣たちは動かないのではなく、動けなかった。

 何かが彼らの身体をすくませている。


 ――途方もない間違いを犯している。

 そんな気分が胃の腑からこみ上げてくる。


 たとえるなら。

 大型捕食獣の顎に、何も知らずに自分から進んで頭を突っ込んでいるような。

 それが恐怖であることが彼らには理解できない。


「いいですか――」


 たずねるような呟きがあった。

 呟く少年の顔には嫌悪があった。


 少女を輪姦している連中に対して、か。

 禽獣きんじゅうのようにふるまう輩に対して、か。


 その反応は、異界のただ中にあって、不条理なほど人並みであった。

 少年は、淡々と。


「――僕はこれから、あなたを殺します」


 そのように告げた。


 風が疾った。

 重い闇の漂う空間を、まばたきする間に端から端まで横切る。


「っかはぅ」


 男、であったものが呻いた。

 呼吸と言葉を、途中で無理に断ち切られたような呻きである。


 緋の色が咲いた。

 風は斬線、緋は鮮血。


 人が、ごとりごとりと音をたてて転がった。

 首と胴が分かれている。

 四人の男は、いずれも頸部をきれいに切断されていた。

 まるで見えない巨大な刃を一薙ぎにした様に。


「あ――」


 生存しているのは、二人だけである。

 少年と、運良く少年に引き倒された男だ。


「あーー、あーー、ああーーーー」


 恐怖が、男をヒトに戻した。

 恐怖が、男から理性を奪った。

 目の前の光景は思考の枠を超えていた。

 意味のない、悲鳴ですらない言葉で男はあえぎ続けた。


 ゆらりと、何かが身を起こした。


 少女である。

 崩れた瓦礫の上に、少女が立っている。

 日比谷薫子。

 無惨に陵辱されていたはずの少女である。


 少女は口許に微笑をたたえていた。

 こびりついた液体を赤い舌がちろりと舐めとる。


 少女には。

 長く鋭い爪がある。

 ねじくれ、節くれだった腕がある。

 ヒトという偽りの姿を解き放った少女には、赫々かくかくと輝く集光性の瞳孔がある。


 娘は。

 人ではない。


いみ……」


 夜と血と臓物の匂いに、少年の声が溶けた。


 人外の速さで人ならぬものが跳躍した。

 視界から消える。

 豹などよりはるかに速い。

 人には捉えられぬその速度は、現存するどのような大型捕食獣にも勝る。


 娘の形をした怪物が腕を振る。

 そこには虎をも凌ぐ力がこもっていた。


 美しかった。


 たとえば、獲物を捕らえる寸前の肉食獣。

 たとえば、ぎりぎりまで引き絞られた弓。


 一切の無駄のない、単一の目的のために究められた動きだけが持つ、しなやかでシンプルな美だ。


 さしかかる月。闇。血。あおぐろい獣。

 四つの色彩が混じることなく絡み、流れる。


 怪物が音もなく着地した。

 少年と男を飛び越えた位置に。

 予備動作のない脚力だけの跳躍で、優に8メートル以上を飛翔したことになる。


 少年の左肩が熟柿のように弾けていた。

 酸鼻な臭気がまた新たに混じる。


「あひぃっっ!」


 怪物は悲鳴をあげた男に構わず、再び跳躍する。

 重力など関わりないといいたげに。

 半壊した天窓をうち破り踊るように月の下へ。


「ぅあひぇぃっ」


 残された男の悲鳴が、もう一度こだました。

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