第13話 8月29日 夜闇の河原

 結局、美空先輩をつかまえることができなかった僕は、約束の時間に間に合うように指定された場所へ来ていた。我ながら、この律儀さには呆れてしまう。


 額辺のお屋敷の裏手には加賀瀬川が流れている。このあたりにはヤマメとかも生息しているという話を聞いたことがあった。

 その川へ至る獣道のようなところを降りていく。


 夜の音。森の音。

 虫の声と、せせらぎの音。

 水の、ころりころりと沢に砕け滑り落ちていく音と、虫の、木々を空気を震わせる求愛の声。


 いつだったか、幼い頃に伯父さんに連れていってもらったキャンプを思い出す。あの時まで、僕は夜がこんなに騒々しいものだとは想像もしなかった。

 そして、今日まで忘れていた。

 夜の森は、音と生命に溢れている。


 東の山陰からはまだ緩やかなふくらみを描いている月が昇り、頭上には薄靄のような天の川。

 僕たちの学ぶ加賀瀬高校の『加賀瀬』は、元は星の川、つまり天の川の意味なんだと委員長が言っていたのを思い出す。

 夜空は暗くて、そして明るい。

 今この場所よりも、空間も時間も遙か遠くから訪れた光は夜空を照らすことなく、ただ彩っている。

 照らすものは、昇り始めた銀の月。


 沢を降りていく。

 目の前にあるのは黒々とした川の姿。その水面がわずかな月の光を映して、時折、魚の銀鱗のような輝きを見せる。

 すっかり日も暮れた河原には、水の流れる音と小さな虫たちの声しかない。

 耳をすませば、空に浮かぶ月の囁き声が聞こえてくるような、そんなとても静かな夜だった。


 僕が川原の石を踏みしめるたびに、ざくりざくりとリズムを刻む。

 やがて、そこに別の音が加わった。


 パチパチと木がはぜる音。


 広々とした川岸で火を焚いていた。十分なスペースを囲むように、四つの焚き木が燃えている。

 月と星しかないこの暗闇に、赤々とした炎からこぼれた火の粉が舞い上がる。それは蛍のともす温かな光とは違い、もっと強く、激しく、勢いのある光だった。


 四つの炎に映し出される影は四つ。

 対岸の大きな一枚岩の崖に、影が大きくユラユラと揺れている。


 一人だけ離れたところに立っているのは安土さんだろう。表情ははっきりうかがえないけれど、口元に点る赤はタバコの火だと思う。

 見極めのために僕のことをしばらく監視するとか言っていたから、それを果たすためにここにいるんだろう。


 篝火の近くに立っている二人の女性には見覚えがあるような気がする。暗くて判然としないけど、和服を着ていて、おまけに髪型までそっくり同じなんていう人たちを僕は他に知らない。

 おそらく、額辺のお屋敷で女中さんをしている人たちだと思う。そもそも、今回のことは額辺のお屋敷が関わっているのはまず間違いがないから、いるのはある意味当然なのかもしれない。


 彼女たちの陰に隠れるようにして立っているもう一人は見たことのない娘だった。暗いせいかもしれない。なんとなく『人形みたい』だなんて思った。


 年の頃は、十歳前後だろうか。黒目がちな大きな瞳が僕に向けられているけど、何も見ていないようにも思える。

 耳の下で揃えられた漆黒であろう髪は、篝火の赤を受けて夕日のように輝いている。丈の短い着物とあわせると、まるで座敷童子のようにも思えた。


 けれど、彼女はそんなかわいいものじゃない。明らかに違うのがわかる。

 彼女には大きすぎる一振りの日本刀を抱きかかえているのだから。そんな物騒な座敷童子を、僕は聞いたことがない。


 月子さんの言う通りだとしたら、僕が相手をしなければいけないのは、この小柄な――美星ちゃんよりももっと小さな――女の子なんだろうか。

 それは僕を落ち込ませるには十分すぎる。


「えっと……安土さんにここへ来るように言われたんだけど……」


 どうにも歯切れが悪いのは仕方がない。だいたいいきなり殺し合いじみたことをやれと言われて、素直にうんと言うほうがどうかしている。


 とりあえず話し合いでことがすむのならばよし。最悪、尻尾を巻いて逃げ出す算段だけはしている。それで誰も傷つかないのならば、解決方法としては正しいんじゃないだろうか?

 もっともそうしたら、先輩はきっととても寂しげな目をして、僕のことをたしなめるんじゃないかとも思う。それはなんとも、居心地が悪い。


 暗闇の中から溶け出すように姿が現れた。和服を着ているその人を、僕は額辺のお屋敷で見たことがあった。やっぱり彼女だ。

 そっくりでどちらがどっちなのかいまだに見分けがつかないんだけど。髪につけたリボンが炎で真っ赤に染まって見える。


「よく来てくださいました。どうもありがとうございます」


 深々とお辞儀をされてしまっては、こちらも頭を下げるしかない。

 状況がいまいち把握しきれていないのもあるんだけど、右手で頭の後ろをぽりぽりかきながら頭を下げるのはカッコ悪いったらない。


「私は紅玉、と申します」


 そういえば、この人の声を聞くのは初めてだ。年上の女性に失礼だろうけど、結構、可愛らしい声をしてるなー、なんて思った。


「これから狭山さまには、こちらの雪花さまの通過儀式のお相手を務めていただきます。難しいことは何もございません。ただ仕合う。それだけでございます」


 そしてもう一度深くお辞儀をする。


「えっと、そのことについてなんですけど、いくつか質問というか、伺いたいことがあるんですけどいいですか?」


 相手が丁寧だから、なんかとても文句とか言いにくい。これで頭ごなしにいちゃもんつけるのは、人としてどうかと思っちゃうぐらいだ。

 紅玉さんはこくりと小さくうなずいてくれた。どうやら質問を受け付けてくれるらしい。


「えっとですね。そもそもなんで僕なんかが選ばれたんでしょう? 強い人だったら、美空先輩とかでもいいんじゃないですか?」


 そう。単純な強さでいったら、幼い頃からずっと夜属としての訓練を続け、おまけに〈銀〉なんていう名前まで継いでいる先輩のほうがよっぽど強い。


 事実、これまでの訓練で僕が先輩に勝てたことなんか一度としてないんだから、これはもう、揺るぎようのない事実だ。

 なんか自分で言っていて情けないような気もするけど、そこは気にしてはいけない。無用の争いは避けるというのが僕のポリシーなのだから。


「私も詳しいことはわかりかねます。ですが、九十九の通過儀式の相手として選ばれる者は、単に強いだけではありません。強さだけをいうのでしたら、このあたりの夜属では間違いなく、同族狩りの友切こそが最強でしょうから」


 後ろに立つ安土さんへちらりと視線を向ける。


「……狭山さまが鬼子であることは一つの理由なのでしょう。新しい血である狭山さまには可能性があります。きっと、それが大きな理由なのではないかと」


 もしかしたら、ただ炎の揺らめきによる見間違いなのかもしれないけど、彼女はかすかに笑ったように思う。

 なんというか、子供を見守る母親のような慈愛に満ちた表情に見えたせいで、自分の顔が紅くなるのを自覚する。篝火のおかげで顔が紅くなったとわからないと思うけど。


「そして何より、相手を気に入ることも大切です。この儀式では、これぞと認めた相手としか仕合いません」


 いや、それはもしかしたら光栄なことなのかも知れないけど、もう少しこちらの都合とかを考慮してはもらえないんだろうか。

 前にも似たようなことを思ったような気がするけど、果たしてそれはいつのことだったのだろう。すでにそれすら遠い過去のことのように思える。

 次の質問はないのか、と無言で促された。


「ところで、こちらから辞退を申し出ることは無理なんでしょうか?」


 彼女は、さも意外という顔をした。それだけで答えがわかってブルーになる。


「お気に召しませんか?」


 いや、僕が言いたいのはそういう問題ではないんだけど、ここで百万の言葉で説得を試みたところで、事態が改善されるとは思えなかった。

 なんていうか、すでに諦めの境地といってもいいかも知れない。


 僕の沈黙を肯定ととったのか、紅玉さんはもう一度お辞儀をすると、ゆっくりと僕の前から離れていった。彼女が篝火の明かりの向こうへ消えると、入れ替わるように少女が姿を現す。


 抱きかかえている日本刀は1メートルぐらいはあるんじゃないだろうか。持っている女の子が小柄だからというのもあるんだろうけど、やたらと大きく見える。


 ……いや。

 耳鳴に似た音が、その日本刀から聴こえてくる。

 ゾクリとした。

 音ではない音。


 それは――

    凛とした

 清冽すぎて魚すら住めぬ水のような

    冷たすぎる鉄に降りた霜のような――

 死の気配を凝縮した音。


 そして一瞬だけ、刀の呻りに少女の音が呑み込まれたように、聞こえた。


 5メートルほど離れたところで、少女の足が止まった。炎の赤を映し込んだ瞳が、じっと僕のことを見つめる。

 白い顔が赤く輝いている。揺らめく炎のせいで陰影が変わり、万華鏡をのぞき込んでいるかのようにくるくると表情が変わっているのかと錯覚してしまう。

 実際は、僕のことを見つめながら、表情はいささかも変わってはいない。ただひたりと、僕のことを見つめているだけだ。

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