第11話 9月21日 9月21日 終い

 美星ちゃんへ近づいていく先輩を飛びえて、僕は美星ちゃんを背中にかばった。


「……どういうつもり?」


 冷え冷えとした光をたたえた先輩の瞳が僕のことを見つめている。

 それは夜属としての先輩のかおだった。

 そこに一切の同情や甘えなどは存在しない。純粋な、研ぎ澄まされた、すべてを穿つひとつの牙という存在だった。


 脊髄を冷たいものが這い上がってくるような感覚が気持ち悪い。じっとりと背中に汗が噴出して、シャツがぴったりと張り付いて冷たい。

 震えそうになる声を意志の力で押さえつける。


「美星ちゃんは、殺させません。どうしても美星ちゃんを殺すというのなら、僕は彼女を連れてこの町から出て行きます」


 ぴくり、と背後の空気が震えた。

 小さくもれる息遣いさえ聞こえてきそうな静寂があたりを包んでいる。


「そう」


 先輩は、顔色も変えずにじりじりと距離を詰めてくる。右手の爪が月明かりを照り返して無気味に光る。


 もう、爪の届く距離に入っている。

 それは即ち、僕の攻撃も届くということ――。


「なら、美星と一緒に宗哉くんも殺してあげる。

 ――もう一度、殺してあげるわ」


 瞬間。

 首をつかまれた。


 ギリリと締め付けられて、鼻の奥が痛くなる。

 そのまま畑から大根を引き抜くかのような無造作な動きで僕は空へと放り投げられた。


 世界が回る。

 夜空と、大地と、先輩と、月と、滝と、美星ちゃんが回っている。


 背中から落ちた。

 まるで空気の塊が咽の奥に詰まっているかのようで、呼吸ができなかった。

 咳が出る。ふいごのように背中を波打たせ、ようやく新鮮な空気が肺に入ってきてくれた。


 今更のように、ざぁという血の流れを首の後ろあたりから感じる。

 あのとき――先輩の爪に首をつかまれた瞬間、僕はもう死んだのだと思った。先輩の声を聞いたそのとき、死ぬしかないのだと、そう確信した。


「お兄ちゃん!」


 美星ちゃんが先輩の脇をすり抜けるようにして駆けて来る。

 小さな手が差し伸べられる。僕はしっかりとその手を握った。もう離さないように、誰にも渡さないように。

 僕の想いに応えるように、小さな手も僕の手を握り返してくれた。


 立ち上がって、先輩を見つめる。

 先輩の黒い髪が、蒼い月の光を映し返す。


「――どうしても行くというの」


「はい」


 僕はうなずいた。先輩の背中に。

 美星ちゃんの手を握りながら。


「わたしの役割を承知の上で行くというのね」


「はい」


 美星ちゃんはうつむいたまま、顔を上げようとしない。肩をわずかに震わせている。耳に届くのは、こぼれ落ちる涙が小さな革靴を叩く音だけだ。


「わたしの知る限り、忌から人に戻ったという話はないわ。それでも、行くというの?」


「はい」


 もう一度うなずく。

 過去に一度として例がなく、可能性がまったくないと言われても、僕はいく。

 美星ちゃんを連れていく。

 この町を後にする。美星ちゃんと二人で。


 先輩は無言になった。

 風が、先輩の長い髪を揺らしている。

 かすかに震える先輩の右手は、固く握りしめられている。


 ピリピリとした気配。

 さっきまで聞こえていた虫たちの声もない。

 先輩の発する気配におののいて。

 蒼い月の光だけが降り注ぐ、静かな夜だった。


「辛いわよ」


 先輩の声は微塵も震えていない。


「わかっています」


「追手がかかるわ」


「承知の上です」


「きっと、わたしが追うことになるわ――」


 美星ちゃんがびくりと震えた。カタカタと体が震えているのが繋いでいる手から伝わってくる。


「――それでも、宗哉くんは美星と一緒に行くというのね」


「はい」


 きっぱりとうなずいた。

 一番好きな人に追われる悲しみに震えている美星ちゃんの手を握って。


 先輩の身体からふっと力が抜ける。

 さらりと肩にかかった綺麗な髪が流れ落ちる。

 さっきまであたりを支配していた冷たくて熱い気配がなくなっていく。

 先輩の右手は、力をなくしていた。


 誰も言葉を発しない。

 まるでこの状態を壊してしまうのが怖いといわぬばかりに。


 風が通り過ぎる。

 先輩の長い髪が揺れている。


 僕たちの無言を埋めるかのように、虫たちがおずおずと声をあげ始めた。

 澄んだ声があたりを包み始める。

 僕たち三人を、虫たちの歌声が覆い隠していく。






 ――行かないで。






「――いきなさい。あなたたちの思う通りに。これ以上、わたしにできることはないわ。だから、いきなさい」


 美星ちゃんが息を呑んだ。

 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。大粒の涙。見慣れたはずの彼女の涙が地面にこぼれ落ちる。






 ――ねえさま。






 美星ちゃんは声を殺していた。

 美空先輩に――大好きなお姉さんに聞こえないように。ありがとうと伝える代わりに、美星ちゃんは声を殺して泣いていた。






 ――すき、なの……。






 僕は頭を下げる。先輩はこっちを見ていないけれど、それが今の僕にできる精一杯のことだと思ったから。


 だから頭を下げる。深く深く下げる。

 ありがとうと声を出す代わりに。

 さようならと声をかける代わりに。


 美星ちゃんの手を握ったまま、僕は歩き始めた。

 先輩に背を向けて。僕のことを好きになってくれた女性を置いて。






 ――そうやくん……みほし……。

 ――行かないで。

 ――わたしをひとりにしないで……。






 美星ちゃんは、これまでのように僕の後ろではなく隣を歩いている。手を繋ぎながら、これから先を共に歩んでいくパートナーとして。


 先輩の背中はたくさんのことを語っていた。僕に行かないで欲しいと言っていた。美星ちゃんのことが心配だと言っていた。そして、独りにしないでとも言っていた。


 でも、僕はそれに応えることはできない。

 僕は美星ちゃんを選んだのだから。

 美星ちゃんと一緒に生きていくことを選択したのだから。


「いつか――」


 美星ちゃんが僕の顔を見上げる。大きな瞳は涙があふれ、その雫に蒼い夜の星々を映している。


「いつか美空さんに報告しよう。僕たちは元気でやっているって。心配しないでくださいって」


 僕は美星ちゃんを見下ろす。涙で濡れた彼女の白い顔はとても綺麗だった。


「はい。いつか必ず、姉様に会いに行けるように」


 それは今までで見たなかで、一番大人びた美星ちゃんの笑顔だと思った。


 僕は美星ちゃんといきていく。

 蒼い夜の下。

 肩を並べて。

 二人で手を繋ぎながら。


 ぼくたちは夜の歌をききながら、いきていく。






s35告白―wakare―【二回目】――終了


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シナリオ/ 卯月桜

      無明ヲワル

シナリオ補佐/ Nekko

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