第3話 回想 初めての微笑み

 僕が初めて黛と会ったのは、まだシトシトと雨の降る季節のことだった。


 その日、転校して来た黛のおかげで、教室がちょっとしたパニックに陥ったのを憶えている。

 まるで少女の様な美しく整った顔立ち。自然な仕草の中に醸し出されるつや。女子だけではなく、男子も息を飲んでざわめいていたのが印象的だった。


 かく言う僕も思わずまじまじと見つめて、本当にこの転校生が男子なのかを激しく疑ったものだ。

 綾乃ちゃんが黛を僕の隣の席へと導いた時には、もうどうしていいのかわからなかった。


「狭山くんは、黛くんのお隣りの席なんだからクラスのみんなの紹介と校内の案内をお願いね」


 授業が終わると、相も変わらず綾乃ちゃんはちょっとお姉さんぶって、一方的に僕に通達した。普段なら何かしらちゃかすところだけど、その日ばかりはどうも口が上手く動かなかった。

 その沈黙を納得と受け取ったのか、綾乃ちゃんは一人で満足してさっさと行ってしまう。


「狭山宗哉君だったよね。これからよろしく」


「あ、よろしく」


 女子たちの発する妬みの視線の中、僕は差し出された手を握り返した。

 今時、握手を求めるなんて珍しかった。もっともその仕草がまた様になる男でもあるのだけど。


「佐倉綾乃先生だっけ。なかなか、楽しそうな先生だね」


「ああ、綾乃ちゃんね。楽しいというか、幼いというか……どうにも心配な先生だよ」


「なるほど、確かにどことなく頼りない感じのする先生だよね」


 そう言って黛は教室から出ていく綾乃ちゃんをすぅっと見つめた。その視線にどこか冷たいものを感じたのを覚えている。


「ええっと、そうだ。校内を案内するよ」


「そうだね。夜になったら大変だ」


「いくらなんでも夜にはまだならないさ」


「……ああ、それもそうだね」


 僕に続いて廊下に出た黛は、少し間を置いてそう答えた。


 その容姿といい、立ち振る舞いといい、彼はどこか普通ではない空気を持っているようだった。

 それは、黛の整いすぎた外見のせいなのかもしれない。まるで美術家が己の魂を込めて掘り出した大理石の彫像のような印象から、造り物めいたものを感じ取ってしまうせいだろうか。


 なんとなく居心地の悪さを感じつつ、それでも僕は綾乃ちゃんの頼みを実行することにした。


「さて、まずは図書室から行こうか」


 僕はそう言うと、黛を図書室へと導いた。




 図書室には10人近い生徒が、勉強をしたり、雑誌を読んだりしていた。


 加賀瀬学校の図書室は、一般にも開放されていることもあって、蔵書の量とか、種類とかは結構あるらしい。ちらほらと私服姿が見えるのは、外からきた人だろう。もっとも、僕自身はあまりお世話になっていないのだけど。


「ふーん、静かで使いやすそうな図書室だね」


 黛は興味深そうに、図書室を見回していた。


「まあ、図書室を使う人種にはいい場所なんだと思うよ。実際、近所に住んでいる大学生とかも調べ物に来たりするらしいし」


「おや、君は使わない人種なのかい?」


「狭山君は、試験前がせいぜいかな」


 唐突に背後から委員長が顔を出した。思わず振り返った僕とは対照的に、黛はそれほど驚いてないようだった。


「二人とも入口で話し込むのは迷惑よ」


「小泉さん、だったかな? 狭山君に図書室の説明をお願いしていたせいで、彼に非はないんだ。ごめんね」


 ふわりと微笑む黛に、委員長だけじゃなくて、僕まで顔が赤くなった。なんていうか、笑顔がこうも決まる人間はそういないだろう。

 委員長は、こほんと咳払いをした。どうやら、僕と同じ気持ちだったらしい。

 むしろ、直接笑顔を向けられた委員長のほうがダメージは大きいのかもしれない。耳まで赤く染まっていた。


「図書館のことでわからないことがあったら、図書委員に聞いてね。一応、しおりも置いてあるから、まずはそれを読むのもいいかな」


 てきぱき説明していく委員長、相変わらず天性の委員長属性の持ち主だ。さっきまで赤くなっていたことなんてまるでなかったかのような滑らかな説明だった。


「委員長は本を返しに来たの?」


 僕は、委員長が抱えている本を見て尋ねた。


「うん。あ、そうそう。図書室の人が言ってたわ。狭山君、返してない本があるそうよ。ちゃんと返しておいてね」


 墓穴だった。


「あー、うん。いや、面白くてさ」


「ちなみに、ゴールデンウィークの課題の本だって話なんだけどな。狭山君って、勉強熱心なのね」


 とほほ……。


「じゃ、しっかり黛君を案内してあげてね」


 図書室に消えていく委員長を見て、僕は部屋から本を探し出す苦労に肩を落とした。


「小泉さんはしっかりした人のようだね」


「むしろ、面倒見がよすぎるぐらいかな」


「そういえば、狭山君は彼女を名前ではなく役職名で呼んでいたよね?」


「ああ、そうだね。委員長の場合、名前で呼ぶ人のが少ないんじゃないかな?」


「それはかわった習慣だね。でも、それがここでの決まりなら僕も委員長と呼ぶことにしようかな」


「そんなに難しく考えることなんてないよ」


 特に用事はないので、図書室を出ることにした。


「次は保健室に行こう。なにかあったら行かなければならない場所としては優先度も高いだろうしさ」


 病気や怪我をしなくても、最近ではカウンセリングをしてくれるんだし。

 もっとも、僕は一度として受けたことはなかったけど。


 案内をしようと足を進めようとしたけれど、黛はその場に立ち尽くしているだけだった。


「すまない。保健室は教室に行く前に案内されたから、もう知っているんだ」


 なるほど、綾乃ちゃんもさすがに保健室ぐらいは自分で案内したのか。物理教師になれたのが七不思議の一つに数えられるぐらいの人だけど、さすがに教師としての自覚までは抜けてなかったらしい。


「うーん、じゃぁ食堂にでも行こうか」


 今度は黛もうなずいてくれた。




 時間帯が違うから、何もなかった。お昼になれば定食やパンを購入しようと生徒たちがうねる波となって並んでいるんだけど、さすがに放課後では誰もいない。


「ところで、お昼はどうするつもり? 弁当だったら問題はないけど、食堂かパンなら、ここまで来ないといけないから」


「パンをここで売っているのかい?」


「そ。ここではカツサンドが一番美味しいかな? 逆に人気がないのはメロンパンとかラーメンパンってところだね。ちなみに、教師も生徒も分け隔てのない、純粋な競争だから」


「なるほどね。それは大変そうだ。狭山君はどうしているんだい?」


「僕は弁当を作ってくるからね」


 片方の眉がひょいと上がった。どうやらそれが、驚いたときの表情らしい。


「自分で作るのかい?」


 さも興味深いといいたげな瞳の色が僕を見つめていた。確かに、男子高校生で弁当を作るのは珍しいかもしれない。


「一人暮らしをしているからね。そんなことより、とっておきの場所があるんだ」


 僕は、わざと話題を変えた。誰にだって、触れられたくない話題はある。

 それがいくら自分の中で解決したと思えるものであったとしても。




 屋上へあがると、空は梅雨の間の晴れ間を見せていた。久しぶりに見る空はどこまでも高い。ゆっくりと暮れつつある世界が、わずかに赤く染まり始めている。


「なんだ。狭山か」


 朱み差す夕暮れの中、彼女のふかす煙草の煙までもほのかに赤く染まっている。

 梅雨時はなかなか屋上へあがれないんだけど、江草がわずかな晴れ間を狙って屋上へ来ているのを僕は知っていた。


 江草が微妙に視線を僕の後ろにやったのに気がついた。他人にあまり興味を持たない彼女にしては珍しい反応だけど、今回はわからなくはない。


「ああ、今日転校して来た黛君」


「はじめまして、黛です」


 江草は何も言わずにちょっと頭を下げた。そして興味なさそうにそのまま、金網に寄りかかってしまう。

 まったく、どんなときでもマイペースだった。


「彼女もクラスメイトなのかい?」


 その疑問はもっともだろう。


「滅多に教室じゃ見かけないと思うけどね。ただこの屋上の鍵は、事務員の夕雅さんか江草しか開けられないから、頻繁にこれる場所じゃないんだ」


「ふーん、とすると、彼女は鍵開けの名人なんだ」


 ひょいと肩をすくめてみせた。彼のように様になっていたかどうかは別の話だ。


「ここの鍵が開いていれば、必ずいるよ」


「なるほど。屋上が彼女のエリアなわけだね」


 妙な納得の仕方をしたようだった。

 江草の紹介も一段落すると、話すこともなくなって僕らは空を見上げた。


 昨日までに洗い流された空は、真っさらなキャンパスに朱をぶちまけたように紅い。

 わずかに残る雲は、昼から夜へ貫くように炎を燃やしていた。


 あまりに綺麗な赤。

 空の青も、雲の白も、すべてを塗りつぶしてしまうような完全な赤だった。

 綺麗過ぎるとさえ言えるかもしれない。


 僕はふと思う。


「綺麗な夕暮れは怖いな。次に来る夜の闇に吸い込まれそうな気がして……」


 ぽつりと自分でも意識せずに言葉を呟いていた。なぜそんなことを口にしたのか、自分でもわからなかった。

 それでも、僕の眼は夕暮れを見つめている。

 その先にある闇――夜が今にも僕を吸い込むような感覚に、心が震えた。


 黛が僕のことをじっと見つめていることに気が付いたのは、どれくらい経ってからのことだったのだろう。いや、もしかしたら一分も経っていなかったのかもしれない。


「君は、面白いことを言うね」


 ふわりと、空に溶け込むような笑顔だった。


「……変、かな?」


「いいや。変だなんて思わないよ。僕は君のようにこの夕暮れを感じることはできないけれど、君の気持ちはわかるような気がする。何より、そう思えることが羨ましいよ」


 黛は、笑った。

 本当の意味で彼が笑ったのは、それが最初だったような気がする。はにかんだと言った方が正しいほどの微かな笑いだけど、今まで僕に見せてきたどの笑みとも違う、本当の笑顔だったと思う。

 そして僕もつられるようにして、微笑みを浮かべていた。


 この時が、本当の意味で初めて黛と出会った時だったんじゃないだろうか。


 それから、僕らが親しくなるのに時間はかからなかった。

 いつの間にか黛は僕のことを「宗哉」と呼ぶようになり、僕は彼を「黛」と呼ぶようになっていたのだ。






 人には役割がある。


 人?


 いいや、駒だ。


 駒には役割がある。


 それは存在意義であり、それが全てだ。


 役割を果たすことのみが真実であり、他は全て虚構に過ぎない。


 役割を果たすために付加されたロジック


 それが生きてきた世界であり、生きている世界だった。


 あの日、あの夕暮れ。


 君の言葉を聞いた――興味を持った。


 役割のために持ったと思っていた。


 やがて世界は、役割という単色から、艶やかな彩色へと変わっていったのだと思う。

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