第56話 鳥の詩(「AIR」のテーマ)

 本宮勝己の葛藤。

 本宮鏡という俳号で俳句を連載していたところから、森山猫というペンネームで小説を執筆するようになるまでには、親しい詩人サークルのメンバーにも言えない、恥ずかしさや気まずさがあった。 


「そこが、緒川さんはすごいですよね。なんとなく、マンガ家になりたいって憧れる人たちは、大手出版社のマンガ雑誌の新人賞に応募してデビューとか考えると思うんですよ。でも、そうしなかったんですよね」


 メイプルシロップこと緒川翠。

最近では、スマートフォン向けの大人気オンラインゲーム「聖戦シャングリ・ラ」のキャラクターデザインから、設定、ストーリー原案まで、ゲームプロデューサー岡田昴と組んで幅広く手がけている人気マンガ家。

 その繊細な画風の美しさは、多くのファンを魅了している。

 彼女は「わかばマーク」という女教師と女子高生のレズビアンの恋愛を描いた読み切り作品でデビューして、今に至る。


 本当はレズビアンの恋愛ものだけを描いていたいのに、他のエロマンガも描かないと、レズビアンものは描かせません、と編集者から言われているのでしかたなく、他のジャンルも、がんばって描いているそうである。


「少年誌はもちろん、青年誌でも今では百合ものなんてそれなりにファンがいますけど、私のデビュー前は、それこそ同人誌の二次創作のパロディ作品ぐらいしかなかった。そこで考えて、エロマンガの雑誌に持ち込んだんです。今みたいにWebサイトで掲載できる状況なら、同人作家で、商業誌にデビューしてなかったかもしれない」


 勝己のライトノベルの作品の表紙とイラストを担当することになったので、大先輩の人気マンガ家との対談を自分のファンサイトに載せることにした。

 緒川翠が今回の企画に賛同してくれたので、勝己はかなりほっとした。

 テレビや雑誌などのメディアの取材をずっと、緒川翠は断り続けてきた人だった。


 1989年に宮崎勤事件という猟奇殺人事件が起きたことで、どうしてそんな事件が起きたのかと原因を探して落とし前をつけるように、一部のマンガ作品やアニメ作品が悪いとバッシングされたことがあった。

 たとえば、マンガなら、遊人の「ANGEL」という作品は有害図書とされた。当時は国会でもこの作品を議員がバッシングする発言まで出るほどだった。


 その影響は、ずっと後年になって、緒川翠がマンガ家デビューする頃にも、熾火おきびのように残っていた。


 この有害図書の問題提起は、それ以前のマンガ家の手塚治虫や永井豪の作品にもされたことはあった。しかし、この90年代の始めに起きたバッシングは、少しちがう意味があった。


 手塚治虫や永井豪のバッシングされた頃は、マンガは子供が読むものという考えが強くあり、あえて過激さを演出する意味が、そのマンガ家が感じる世の中への問題に対する告発や抵抗として表現されたものでもあった。

 89年のバッシングと有害図書指定の頃は、マンガはかなりの売上をのばしていて、人々の娯楽として大きな市場に成長していた。

 売上の大きな市場は、世論で叩かれる傾向がある。猟奇殺人事件と、バッシングで騒がれた業界とは直接の関係はない。

 

 ゲーム業界は89年以降の規制の打撃を受けた。岡田昴は大学生だった時にゲーム会社主催のシナリオコンクールに入賞したあと、ゲーム会社でクリエイターとして働き、そこで気の合った仲間と出資して、ホワイトリリーというゲーム会社を設立した。

 ホワイトリリーは、パソコン用18禁ゲームでは革新的なストーリー重視のゲームを制作して人気があった。

 アダルトゲームを原作としたアニメ作品やノベライズの流れもちょうどあった。

 だが、89年以降の家庭用ゲームに対する法規制で、ホワイトリリーはパソコンゲームの移植の話が途中で打ち切られ、家庭用ゲームへの参入がうまくできずに倒産した。

 家庭用ゲームに移植するためのシーンカットや、別のストーリー展開も加えたバージョン制作をかなり進行していたが、それらの制作や宣伝広告の支出の採算が取れずに赤字になったのが原因。


 その後に、現在のフェアリードリームという会社を設立したという苦労をしてきた人物である。


 家庭用ゲーム機のブームが落ち着いてきたあと、スマートフォン向けのオンラインゲームブームがやってきた。


 インターネットが身近に普及したことで、情報の共有化が発生して、今までよりも同調圧力は意識されやすくなった。

 しかし、岡田昴は、以前よりも同じ考えや嗜好の人がつながりを求めるのではないかと考えた。


 ホワイトリリーで一緒にやっていたスタッフたちに岡田昴は呼びかけた。

 前よりもおもしろいゲームが、今ならできる、と。

 すると人生で何があっても、ずっとゲームが好きでたまらない人たちが岡田昴のところへ集まってきた。


 こうして再結成したスタッフたちのゲーム制作会社フェアリードリームは、人気マンガ家メイプルシロップの協力のもと「聖戦シャングリ・ラ」の制作に挑んだ。


 「聖戦シャングリ・ラ」のスポンサーは、海外からのネットアダルト動画の普及によって、購買客が減ったアダルト映像制作会社サンダース。


 利用者のゲームプレイヤーに、課金させるようにシステム変更を要求してきたスポンサーに対し、岡田昴はゲームプロデューサーとして、それをするぐらいなら自分の会社を倒産させてでも、この企画から降ります、と会議で言い切った。


「売れる人気作品を求められて、その結果として性描写をフィクション化した作品が増えつつあったわけですが、性描写というのは、どこかフィクション化されきらない部分があって、なまなましい気がします」


「たくさんの似た作品があって、売れるように目立つポイントを作らなきゃダメという流れに、ちょっとブレーキがかかったおかげで自由がなくなったっていう人もいるんですけどね。ただ私がデビュー作を描いた時は、売れるかは考えなかった。絵にはちょっと自信があって、他のマンガ家には負けないって、根拠のない自信だけはありましたけど」


「絵がきれいで上手だから、これはいけるって思ったんですか?」


「なんかその頃は、人気マンガ家は週間連載で、限られた締め切りまでに仕上げなきゃいけなかったそうです。だから、みんな絵をどうやって簡略化して、上手く見えるように描くかみたいになっていて。アシスタントをたくさん雇える人は、それなりにきれいなんだけど。私が高校を卒業したあと、すぐに持ち込んだ雑誌は、発行部数も大手出版社みたいに多くなかったから、月に読み切りをひとつ丁寧に描けばよかったの」


「でも、デビュー作のコミックを拝見させていただきましたが、あの緻密な絵を全部一人でお描きになっていたと噂で聞いています。読み切りって、難しくなかったですか?」


「あら、猫くんも短編集を出しているじゃない。それに小説家は、執筆にアシスタントを頼まないでしょう。ねぇ、読み切りは難しいと思ったの?」


「僕がWebサイトで、小説を読んでいてはまっていた頃は、長編の作品が人気で、マンガ化もされて書籍化されたりしてました」


「私はだらだら続く長編よりも、スパッと読み切れる作品のほうが描いていて気持ち良かった。長編マンガは、人気があるうちはいいの。でも、人気がなくなったって判断されたら、打ちきりにされたりもしてね。それに月刊誌だと、話がなかなか進まないから、ちょっとイライラするし。ところで小説家の猫くんは、どっちのほうが気持ちいいの?」


「短編はお約束の展開みたいなところが崩しにくいので、アイデア勝負や登場人物の個性勝負ってところで毎回悩みます。長編だと登場人物たちに愛着が出てくれば、本当に書きやすい。それに、短編でも、舞台となる世界の設定とかは長編の作品と共通になっている連作のほうが楽なんですよ。短編と長編、どっちも、執筆中はしんどいですよ。書く前の想像しているときが気持ちいい」


 森山猫のペンネームを使う前の本宮勝己が悩んでいたのは、性描写を強気で小説に書くか、書かないかという選択だった。

 

 たしかに小説を書いたら、読んで人気があるのはうれしい。

 でも、流行の暴力描写や性描写のある小説を、身近な親しい人たちが読んだ時にどう思うか?


 本宮勝己は、それを一人で悩んでいた。


 

 


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