第5話 経験は必要?
恋は全て初恋です。
相手が違うからです。
(中谷彰宏)
詩人サークルの四人の中で、一番経験人数が多いのは「コロさん」こと天崎悠である。
これは単純に、彼が解放的な男性の同性愛者たちが集まる場所で活動しているからだと、決めつけるわけにはいかない。
解放的な場所であっても、相手にとってただの都合の良いだけの相手を演じて、気前の良さをアピールするだけなら、酒や食事を相手に奢って、ただの顔見知りの知人を増やすだけで、一夜限りの相手だとしても経験人数を増やすことはできない。
誘われてもいいと思っている相手かどうかを、一目見て彼が判別しているわけではない。
むしろ相手は誘われる気は初めはない。だが、彼が相手に話しかけ続けて、強気な態度で誘い続けることで、場の雰囲気の流れで彼の誘いを断るほうが不自然だと思い込んでしまうからだといえる。
相手が天崎悠よりも強気で拒絶することができれば、彼はただゲイの集まる発展場のゲイバーで酒を酌み交わしながら、誘った相手と雑談して、暇つぶしをしただけになってしまうだろう。
または、青梅のようなスキンヘッドのバーテンと雑談するだけ。
天崎悠は自分に自信をつけるために、詩人サークルの三人と出会うまでは、ゲイのたまり場へ通っていた。
店のドアに貼られた会員制というプレートの意味は、同性愛者であるお客様たちの店という意味である。
同性愛者ではない嗜好の人たちのことは、その気がない人たちという意味で、ノンケと呼ばれている。普通のバーだと思ってノンケの男性客や女性客がまちがって入店しないようにするために会員制というプレートを掲げている。
また食われノンケといって、性処理のために、隠れてゲイの男性に頼んで性欲を処理してもらう人もいる。
ゲイバーなどで、能動的にタイプを探したり声を掛けたりすることはせず、ただ受動的に待っているだけの人は、待ち子と呼ばれている。待ち子のなかには食われノンケも来ていることがある。
どこがゲイのたまり場で、ナンパスポットになって場所はあるのかは、ゲイバーに来ている常連客との雑談していて最近はどこがいいかと話題に上がった時に教えてもらうか、ゆきずりの関係を持った相手から教えられることもよくある話だ。
流行のデートスポットなどを情報収集しているのは、ノンケの人とゲイの人も同じである。
天崎悠は周囲の人たちに、自分がゲイであることをカミングアウトしていない。
カミングアウトをしたことで、軽蔑された経験を持つ人たちもいて、天崎悠は他人の体験談を、ゆきずりの関係で一夜をともにした相手から聞いたことがあった。
また他人から軽蔑されることがある同性愛という嗜好から抜け出そうとして、女性と交際してみた人の体験談も聞いていた。
天崎悠自身は、父親と愛人の関係に汚らわしさを強く感じて、同性愛の関係に、自分の存在をすべて許して受け入れてくれるパートナーを求めるようになった。
また、同性愛の嗜好という秘密を共有し合うことで、心のつながりを求めていくようになっていった。
天崎悠は、他人との心のつながりを期待して、ゆきずりの出会いと別れを繰り返してきた。
水原綾子や藤田佳乃、そして本宮勝己とくらべて関係を持った人数は、天崎悠は多い。
それだけ、性行為そのものやスキンシップに対して、気持ちを伝えあう特別なものという感情が、雨風に岩が削り取られていくように風化していっているところが、詩人サークルの三人よりもある。
空放つ凍鶴の声ありにけり
天崎悠はある日曜日、ラバン・アジルで雑談をしている時に、天崎虎狼として、気まぐれで俳句を詠んだ。
それは三人をとても驚かせた。
「コロさん」の本宮勝己への恋慕はなかなか伝わらない。
三人は「凍鶴」や鶴の声の響きや空の美しさを一句から想像して、とても感動していた。
「コロさん」は本気で惚れた本宮勝己には、ナンパしてゆきずりの関係を持って別れてきた人たちに対するような態度や行動に出られない。自分は、ふがいないと思えてきて、珈琲をひと口、ゆっくりと飲んだ。
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俳句の作り方の基本に「写生」という考え方がある。
実際に絵画を描くわけではなく、言葉で映画のひとつのシーンを切り取るように描写する工夫のことである。
絵画では、クロッキーやデッサンが第一歩といわれるのとよく似ている。
甘草の芽のとびとびのひとならび
これは
たしかに目の前の
事物と事実をわかりやすく伝えることよりも、詩といえば詠んだ書き手の気持ちや心情、感慨や思想のほうを、目の前のものを簡潔に書いたものよりありがたいものと思われがち。
しかし、簡潔にしっかり読んだ人に伝える工夫、客観的な描写が土台にあってこそ、見所のある俳句になる。
桐一葉日当たりながら落ちにけり
素十の師である高浜虚子にもこうした一句がある。
桐の葉が一枚、枝からはらりと落ちて、舞うようにゆっくり日ざしのなかを落ちていく様子をシーンとして具体的に切り取ってみせている。
「桐一葉はらりはらりと落ちにけり」ではいまいち。
「桐一葉舞いつつ落ちてゆくところ」もまあまあ。
「桐一葉日を浴びながら落ちにけり」でかなり良しではあるけれど「浴びながら」が桐の葉が擬人化されているようで言葉が粗削り。
やはりそうなると虚子の「当たりながら」の表現のほうが客観性が高くなっている。
花を見ていたり、驚きや発見があるとそれを人に伝えたくなる。
それは人間が群れを作り生活した動物で、仲間に必要な情報を教える役割があると主張して群れから排斥されないようにして身を守ってきた習性があるからだ。
また、恋人に自分の見たもの聞いたおもしろかったり感動したものを共有して、気持ちを伝え合いたいというようなことはある。
そうした本能的な部分を満たすための行動が「写生」の表現を生み出していく原型にある。
人は集団生活の中では言葉で情報を伝えあう習性がある。
しかし、その情報には、実際の景色と情景がひとつに混ざりあっている。
詩の表現で何か伝えたいと思い始めた時、しだいに「写生」としての描写から離れていく。
言いたいことを言葉と文章の文脈で伝えるために、さらに客観性を突き詰めていき、季語の本意もふくめて情景としたり、楽し、かなし、と強く変えようがない気持ちは、はっきりと伝わりやすい言葉に出して詠む。
これは俳句よりも、和歌や短歌的といえる。
もうひとつは、もとの言葉で切り取ってきたシーンとしてある実景、ありのままに読める表現を生かしながら、主観や感情をバランス良く出すことで、しだいに、あるいは一瞬で情景に変化するのをとらえるように詠む。
「空放つ凍鶴の声ありにけり」と詠んだ「コロさん」こと天崎悠は夜明けに雪原に立っていて、遠くにじっと動かずに立っていた鶴がふいに鳴き声を響かせたのを聞いて驚き、明け方の空の変わりゆく様子を実際に見て、吸い込んだ空気の冷たさも感じながら、感動したことがある。
この旅を終えた天崎悠は、あの鶴のように凛々しく自信を持って生きようと、ゲイバーや他の発展場でゆきずりでも他人と関わっていくことを開始した。
空が、いや自分の生きてきた世界が、一瞬だけ鶴の鳴き声によって解放されたような気持ちになったと感じたことが、雪原の光景を情景に変えた。
経験は大切だ。
しかし、それを誰かに伝えたいと思う気持ちや、心がふるえるほどの感情も必要。
その土台となる「写生」の客観性を生かした表現の工夫は役立つこともあるだろう。
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