第6話 ラパン・アジルの水曜日(前編)

 池上珈琲店から、自家焙煎とハンドネルドリップというスタイルを引き継ぎ営業し、著名人を含む多くの客たちたちからラパン・アジルは愛された。


 村上さんは、池上さんから喫茶店を引き継いだ時、店の名前をラパン・アジルに変えた。


 コーヒーミルから挽きたての香りが漂い、抽出が始まる。つる首のポットからお湯は細くゆっくりとネルに注がれる。

 それはそれはゆっくり丁寧に。


 その間、村上さんはずっとネルのコーヒー豆を見つめ、湯を滴らせたり止めたりする。

 まるで珈琲の気持ちを聴いて慈しむように。


 コーヒーカップを温めて、静かに注ぐ。ゆったりと美しく珈琲を淹れていく。

 濃いのに苦くない、やわらかい珈琲の味を、村上さん自身が毎日しっかりと確認する。


 ラパン・アジルのバーカウンターは分厚く、少し捩れた米松ベイマツの丸太から切り出して作られた天板である。


 年月が経つとさらに木材が捩れていくのを、店主の池上さんは覚悟の上で使用した。

 どこでねじれが止まってくれるかは賭けだった。

 数年して一方の端が反ってしまいコップが滑るようになったときには、一度だけ、なだらかな傾斜になるように角度をずらして調整した。削れば簡単なのだが、池上さんは削りたくはなかった。


 カウンターが使った客たちのことを覚えていくように、捩れたりしていく経過を、池上さんは楽しんでいた。


 今はコーヒー機器の技術開発が進み、微粉の出ないミル、全自動コンピューター制御のロースターもある。

 インスタントの珈琲も、フリーズドライ製法のものと、スプレードライ製法のものがある。

 インスタントコーヒーでも製法のちがいで味にちがいがある。

 珈琲の苦味や雑味を微粉のせいにしてはいけない。

 それより焙煎の工程、抽出の工程が大事である。


 村上さんは手回しロースターを使って焙煎をしている。温度計がついていないので、自分の目で豆の様子や色を確かめながら、火力の調整をしてゆく。

 焙煎は豆の爆《は》ぜを目安にするのだが、爆ぜそうになると火を弱めたり火から離したり、できるだけ爆ぜを遅らせるよう、時間をかけて焙煎していく。

 いち爆ぜ、ふた爆ぜもゆっくり過ぎ、深煎りから、さらに焼き過ぎ直前まで焼く。すると、やわらかな味になる瞬間がある。

 それをちょっとでも過ぎると、苦くて飲めなくなる。


 その瞬間を見極めようと愛用のロースターと焙煎もゆっくり、抽出もゆっくり。


 時間をかけるコツを池上さんはアルバイトとして雇った村上さんに、毎日もてなすように珈琲を淹れて、飲ませながら教えた。


 池上さんは、村上さんに店を譲ったあとは七年間、全国各地の喫茶店から依頼されて、手回しロースターを使った焙煎と珈琲の抽出を教えていた。

 池上珈琲店の雰囲気と珈琲の味に憧れて、喫茶店を開店した人たちもいたからである。


 村上さんは、日曜日に詩人サークルの四人と雑談した話の内容を思い出しながら、開店前の珈琲の一杯を味わっていた。


 産業医に、セクシャルハラスメントについて三十代後半の主任の男性が悩み相談した。


「もちろん直接、彼女の手にふれたわけじゃないですよ。操作手順を教えるために、マウスを使って彼女のわからない操作をやってみせただけ。それが後日、私がセクハラの加害者として問題にされるとはまったく想定外でした」


 教育担当として主任である六年目の男性社員が、女性社員に新人教育をしていた。


 彼女は自分のお気に入りの私物のマウスを職場で使っていた。

 指導なのはわかっているが、無断で私物にさわられたことが、とても不快だったと、新人教育に関する感想のコメントに書かれていたので、教育担当の男性社員は、感想をチェックしたという上司から別室に呼ばれて時間をかけて注意された。


「それから、彼女だけでなく女性から、まるで自分が汚らわしいと思われているような気がして、手を洗うことも増えて、他人の物にふれることにためらうようになってしまいました」


 もともと職場では女性の手にふれたり、体や顔を近づけすぎないようにすることに関して、この教育担当を任された男性社員は、かなり気をつけていた。


 雨の日曜日。

 ラパン・アジルのカウンター席で詩人サークルの四人は並んで、店主の村上さんも交えて雑談をしていた。


「で、カノちゃんはそいつにどんなアドバイスをしたんだ?」


 藤田佳乃に「コロさん」はあきれたような表情で質問した。


 産業医の藤田佳乃は、どちらが正しいとか間違いだとどちらかに肩入れして決めることはできないことを話した上で「あなたはどうしたいのですか?」と相談者の男性に質問した。


 単純に、自分には避難される落ち度はなかったと第三者に擁護して認めてもらいたい人。

 加害者と被害者という関係ができてしまい、相手との関係を仕事に影響しないように改善する方法を知りたい人。

 人間関係のトラブルで仕事の評価に影響があるかを確認して、影響があるなら挽回する方法を知りたい人。

 相談に来る従業員たちが求めていることには、それぞれちがいがある。

 相談窓口で対応できること、できないことがある。


 ハラスメント関連も含めた相談窓口の相談員である藤田佳乃は、経営者と労働者との間で中立の立場であることを説明する。

 相談内容は事実確認と職場環境の改善のために相談内容を報告するが、具体的な実名や一部の発言を相談者が経営者に伝えてほしくない場合には、伏せて報告することも、相談者に丁寧に説明した。


 相談員が相談者に言ってはいけない言葉がある。

 しかし、相談員ではない人たちが相談を受けた時に言いがちな言葉がいくつかある。


「気にすることはないよ」

「それは考えすぎじゃない?」

「そんなに嫌なら本人にはっきりと言えばいいし、言えなければ代わりに言ってあげようか?」

「あなたにも落ち度があったんじゃないの?」

「それを他の人はどう思ってるか知りたくない?」


 本気で悩んでいる人は、気になってしまい一人で考えていることに耐えきれずに、誰かに相談しているケースがほとんどである。


 第三者がトラブルに介入することで、どちらが悪いのか立場を決めつけられたと感じる人も多い。 また、加害者と被害者のどちらも相手と関わることに嫌悪感を抱いていることがある。


 もしかしたら嫌がらせをされた自分に原因があると、この人まで疑っていて、自分は誰に相談してもこの会社ではもうどうにもならないと誤解させる可能性がある発言も、さらに相談者を傷つけて気落ちさせてしまうことが多い。


「難しいわね、本当に。職場の人間関係しだいで、仕事へのモチベーションは変わってくるもの」


 水原綾子は淡々とした口調で、藤田佳乃に言った。


「モチベーションって、やる気ってことか。気分しだいで仕事の成果が良かったり悪かったりしてたら、俺の仕事だったら依頼なんて来なくなっちまうよ」

「相談した人が、コロさんみたいに職場内のクレームなんて、仕事の成果に無関係だと思えるなら、わざわざ相談窓口を利用しないでしょうね」


 本宮勝己が三人の会話を黙って聞いていたが、天崎悠と水原綾子が軽く言い合いになる前に、藤田佳乃に話しかけた。


「ねえ、カノさん、そのもともとのトラブルはパワハラじゃなくてセクハラってことなのは、なんでなんだろう?」


 本宮勝己の発言を聞いた天崎悠と水原綾子は、おたがいの顔を見合せて苦笑していた。


 指導担当者からの指導方法に不満がある人が、誰かにクレームを相談して、指導者の人が指導方法を上司から注意を受けたものと、天崎悠と水原綾子は思い込んでいたことに気づいたからである。


 もし、そうだとすれば、私物のマウスを無断でさわられたとクレームの声を上げた人は、生理的な嫌悪感だったとしても、パワーハラスメントを受けたと申し立てるだろう。

 指導方法に問題があると。


 しかし、セクシャルハラスメントを受けたと、相談者である指導担当の主任の人は、直接に本人ではなく、さらに上司の係長にクレームを相談している。


 なぜ、新入社員の女性は、指導担当の上司である主任にセクシャルバラスメントを受けたとクレームの声を上げたのか。

 職場内で指導担当の上司にクレームを上げることには、どんな意味があったのか。


 手ではなく、マウスをさわわれて新入社員の女性が、嫌悪感を感じたのはなぜか。


 村上さんは天崎悠から、彼の好む激しい曲調のジャズでもロックでもなく、みんなが聴きやすいシャンソンの曲をかけて欲しいとリクエストされた。

 古いレコードが並ぶ棚からレコードを選びながら、村上さんは藤田佳乃の話している人間関係に想像をふくらませていた。


 この時、村上さんが選んだシャンソンの曲は越路吹雪が歌うミロール(Milord)という曲だった。














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