第32話 恋愛小説のように/2

 泉美玲は、そばにいてしんどい人とは離れてみることにした。

 「瑞希さん」との恋に失恋したのはとても悲しかった。

 けれど、朝になれば眠れなくても、カーテンの隙間からの光がまぶしい。

 学校には母親とうまくやっていくには、ちゃんと行かなければならなかった。

 「瑞希さん」との思い出のある家には、別の家族が移り住んできて、飼い犬には吠えられる。


 世界は自分を無視して動いていて、美玲が落ち込んでいても、そうでなくても、この世界で生活していかなければならないことは、不承不承ながらも、受け入れなければならないと思った。


 毎日、珈琲を淹れ続けている村上さんは、気分によってさぼりたい日はないのかと、美玲は働きながら見ていた。

 しばらくすると、毎日、村上さんは同じことを繰り返しているように思っていたが、どうやらちがうようだと、美玲は気づいた。


 「瑞希さん」との思い出を何度も繰り返して、夜中に一人、部屋で涙ぐむことが美玲にはある。

 「瑞希さん」ふれられた肩や頬だけでなく、敏感な部分にさえ、なまなましく指先の感触が残っていると、たしかに感じる。

 いつまでこんなことが続くのかと悩み出すと、美玲は眠れない。


 ウエイトレスの美玲が淹れた紅茶を、水原綾子が静かに飲んでいる。美玲は水原綾子のしなやかな指先が、なんとなく「瑞希さん」を思い出させる。

 美玲は目をそらして、詩人サークルのメンバーのいるテーブルから離れ、カウンターの中の村上さんのそばに立った。


 村上さんは、美玲の様子を気にして、ちらっと美玲の顔を見たが何も言わなかった。


 美玲は「瑞希さん」が、悪い父親のいる家庭で生活していなければ、水原綾子のような雰囲気の大人の女性になっていたような気がした。


(もし、そうだとしたら瑞希さんは、私に興味を持たなかったかもしれないけど)


 美玲の記憶のトリガーが引かれて、胸のあたりが締めつけられたように疼いている。


 物語としてとらえ直して、自分自身で癒すまで、この悲しみの疼きは続く。

 自分とは、一番近くの他人だ。

 過去の自分と、今を生きている自分は、同じでちがう。


 土曜日か日曜日になると、詩人サークルのメンバーの誰かが、カフェ「ラパン・アジル」へやってくる。

 タイミングがずれているか同じかで、全員が同じテーブルかカウンターにならぶ。


 詩人サークルのメンバーのなかで、藤田佳乃は太陽、水原綾子は月のように美玲には思えた。


 天崎悠は、天崎虎狼という俳人となるための名前を持っている。 

 どこか獣じみた欲望を、見た目や雰囲気に隠した人だと、美玲は感じている。


 美玲の想像はまちがってはいない。天崎悠は、本宮勝己が誰かがそばで必要になるほど気落ちする瞬間を待っていた。


 本宮勝己は、丘に立つ一本の大樹のような雰囲気がある人だと、美玲は思った。

 ただ、そこにある。

 いつも陽気でごきげんな態度の藤田佳乃や静かに微笑してうなずいている水原綾子、そして天崎悠でさえも憩うようにそばにいることを許している。


 美玲もまた、本宮勝己に興味を持ってしまった一人であることにまだ気づいていない。


 村上さんからすれば、詩人サークルの大人の四人と美玲の五人が店内で話していると、まるで自分は、先代店主になったような気がする。


「今日はキョウくんも綾さんも、用事があって図書館に来てないんですよ。コロさんが来るかなと思って」


「それは残念ですね。天崎くんは教会の建築の仕事の関係で、しばらく来れないと言っていました」


「へえ~、建築家って家とかお店だけじゃなくて教会までデザインの依頼があるんですね」


 村上さんと藤田佳乃が話したあと、ウエイトレスの美玲に、彼女はにっこりと笑いかけて、ホットケーキを注文した。


 過去に「瑞希さん」が美玲にどうして興味を持ったのかを、ずっと彼女がいなくなってから悩み続けていたけれど、この瞬間になんとなくわかった気がした。


(あ、そうだったんだ。瑞希さんは、たぶん、私のことを天真爛漫だったり、お気楽な子供みたいに思ったんだ、きっと)


 



 


 




 

 




 


 




 

 



 

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