第27話 ホットケーキと珈琲と
泉理香。
カフェ「ラパン・アジル」でウエイトレスのアルバイトをしている十六歳の女子高生の泉美玲の母親。
美玲が4歳の時に離婚しているシングルマザー。
現在、輸入雑貨のアンティークショップを経営し、美玲と二人で暮らしている。
39歳の彼女は、カフェ「ラパン・アジル」の店長の村上さんに恋をしている。
平日の昼間、曜日は決まっていないが毎週、美玲が高校へ行っている午後に、カフェ「ラパン・アジル」に理香は通っている。
美玲がアルバイトを終えて帰宅すると、晩御飯はテーブルにラップをかけて用意されている。
美玲がキッチンのそばのテーブルで食事をしているあいだ、理香はリビングのソファーで文庫本を読んでいた。
夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んでいると気づいた美玲は、母親を観察している猫にでもなった気分で、食卓のクリームコロッケを箸で口に入れた。
クリームコロッケは、母親の理香の好きなおかずで、今夜は機嫌がいいのだとすぐにわかる。
美玲が食事をしているあいだ、以前なら、理香はテレビ番組をながめているか、映画やドラマの動画を鑑賞している時間だった。
村上さんから、たまに母親の理香がカフェ「ラパン・アジル」に美玲の様子を聞きに来ていると美玲は聞いている。
クリームコロッケと「吾輩は猫である」から推測できることは、昼間に母親の理香が「ラパン・アジル」で村上さんと話して上機嫌なのだということ。
「おかあさん、なんかいいことあった?」
「えっ、別に何もないけど」
「ふうん、そうかなぁ」
食事と食器洗いを済ませた美玲が、リビングで母親の隣に腰を下ろして理香に声をかけた。
初めての桜吹雪の通学路
この日は、村上さんの店に行く途中に小学校があり、そこの桜が満開だったことを理香は話した。そして詠んでみた一句を、村上さんに感想を聞いた。
「ああ、いいですね。僕もあの桜が毎年咲くと春だと感じます」
理香は、俳句のできばえなんてまったくわからない。けれど、村上さんと話せる共通の話題があることがうれしい。
そして詠んでみた一句が褒められた気がして、思わずにんまりとしてしまった。
美玲は学校で友人はいないし、作る気はない。放課後はメイド服姿で「ラパン・アジル」のウエイトレスをしているので部活動もしていない。
かなり歳上の村上さんや、たまにやってくる建築家で詩人サークルのメンバーである天崎悠と話すことがある。
また、詩人サークルの他のメンバー、本宮勝己、藤田佳乃、水原綾子も週末にカフェ「ラパン・アジル」に訪れる。
美玲は自分から積極的に他人に話しかけるのは苦手なので、少し歳上の大人たちと話しているほうが、学校で同級生たちと関わるよりも気が楽だった。
母親の理香は、それでも子供の頃の美玲に比べたら、かなりましになったと思っている。
いつも母親の後ろに隠れて、挨拶をするのも苦手で、話しかけられようものなら、ぽろぽろと涙をこぼし始めるぐらい美玲は人みしりな子供だった。
「そんな感じには見えませんね。おとなしいようで、ちゃんとてきぱきと接客もこなしてくれていますよ」
母親の理香からみても、美玲は無愛想なところがあると思っていた。自分の経営するアンティークショップの店番を美玲に頼んでみて様子を見ていても、美玲は笑顔を見せずに接客していたからだ。
美玲からすれば、理香は放任主義とは言わないまでも、のんきな母親だと思っている。
そんな39歳の理香を母親ではなく、美玲は高校入学直前から、カフェ「ラパン・アジル」でアルバイトをしながら美玲は一人の恋する女性として感じることができていた。
学生生活を終え、就職して完全に自立して、母親と離れて暮らすようになってから、親を自分と同じ個人として感じる人は多い。
美玲はそれを母親と同居しながらも、少し早いうちから経験している。
美玲の母親の理香は、離婚後はしばらく無店舗で倉庫を借りて輸入した品物を管理して、インターネットで商品を販売していた。
美玲を保育園や小学校にあずけている空き時間に商売をして、今ではちゃんと、店と兼用で持ち家もあり、それなりに貯金もあり、以前よりもゆったりと商売できるようになっている。
経済的な理由から、結婚を考える必要はまったくない。
美玲と恋愛関係にあった渡辺瑞希の母親とはちがい、理香には結婚に対しての考え方にあせりが無かった。
村上さんがふらりとアンティークショップに現れる日までは、理香は恋愛や結婚は、もうしなくてもいいとさえ思っていた。
(村上さんも喫茶店をしていて、生活が落ち着いてしまって結婚したいときっと思えない感じなのかもしれない)
理香は村上さんと話していてそう思えてしまい、帰り道で小学校に植えられている満開の桜を見上げて、ため息をついた。
一人娘の美玲がカフェ「ラパン・アジル」の雰囲気を気に入ったらしく、中学生最後の春休みから放課後や土日にもウエイトレスのアルバイトに出かけていく。
アンティークショップの店番を美玲に頼めなくなった分は、理香は自分で店番をしている。
(村上さんの前でにやけている顔なんて、美玲には母親として見せられない)
同級生の母親たちよりも見た目では若く見えるのを美玲が気にして、小学生の頃に「授業参観に来ないで」と言われたことを、まだ理香は気にしていた。
離婚してシングルで子育てをしている家庭は子供たちにとってもめずらしくはない。
しかし、自営業で商売しているシングルマザーは、子供たちの親にとってはめずらしい。
アンティークショップ「カンパネラ」。イタリア語で小さな鐘という意味の言葉を理香は店名に選んだ。
リストのピアノ曲「ラ・カンパネラ」という曲を理香はおしゃれだと思い店名にした。
美玲の同級生の親たちがめずらしがることで、子供たちのあいだでも、美玲は意識されることになった。
美玲は小学生の頃から、他の子供たちに距離を置かれていた。いじめられたり、ちやほやされるのではなく、敬遠されていた。
それは美玲にはどうすることもできないこと。美玲は中学生になり、渡辺瑞希に恋をして、自分ではどうにもできないことを受け入れて、気持ちをイライラせずに、別のことに楽しみを見つける考え方を身につけた。
まだ小学生の頃の美玲は、母親が目立っていることで、学校で自分が敬遠されることを、自分なりにどうにかしたかった。
理香は美玲が友達らしい子の話をしないことから、小学校で友達がいないのかもしれないとは思っていた。
それは美玲が人みしりなせいだと考えて、理香のなかでは問題なしと思っていた。
もしも美玲がクラスの生徒たちのなかで自分が原因で避けられているかもしれないと理香が考えたとしても、彼女たちには何もできることはなかっただろう。
中学生になった美玲の三者面談で、担任教師から、美玲はあまり成績が良くないと言われた。
美玲が中学校に通学することに楽しさを感じられないことが成績が良くない原因だと、教師だけでなく理香も考えなかった。
美玲と親しかった女子高生の渡辺瑞希が父親と家を売り払い引っ越していったあと、美玲の成績について、中学校の教師から何か指摘されることはなかった。
学校の教師は生徒たちの人間関係には、あえて干渉しないようにしていた。
美玲が避けられていることよりも、いじめられている生徒の登校拒否や、生徒の万引きなどの問題などに頭を抱えていた。
教師としては、家庭の問題を学校へ持ち込まれても困ると考えることすらあった。
美玲は大好きだった渡辺瑞希の通っていた高校に受験して合格したので、中学校の美玲のクラスを担任した教師たちは、美玲に対して物静かなおとなしい生徒だった印象だけしか持っていない。
カフェ「ラパン・アジル」の村上さんは、母親の理香や中学校の教師たちといった大人たちとはちがった印象を美玲に感じて、ウエイトレスとして一緒に働いてもらうことに決めた。
理香が一人娘の心配をして、カフェ「ラパン・アジル」に通ってきて話しているだけでなく、理香自身の気晴らしになっていればいいと村上さんは思うようになっていった。
村上さんは、シングルマザーの理香にひとめぼれされているとは思っていない。
美玲は渡辺瑞希との別れを経験した。その影響で、他人の恋愛を想像することができるようになっている。
美玲の母親の理香は、海外の家具や食器などをふくめた品物を子供の頃に絵本で見て、とても素敵だと胸がときめいた。
それを39歳になった今でも忘れていない。
村上さんが理香にゆっくりと珈琲を淹れてくれ、リクエストすれば古いレコードをかけてくれる。
(まるで、絵本のなかにまぎれこんだみたいな気分だわ)
理香は、自分の身の回りを好きなものに囲まれていたいと願い続けて行動してきた。
それでもなかなか満たされなかった気持ちが、村上さんのカフェ「ラパン・アジル」で珈琲を飲んでいると、理香は気分がとてもなごんでいくのを感じた。
村上さんはアルバイトの見習いの頃から今まで、何人もの来客の接客をしてきて、くつろいでいる人の雰囲気を、表情やしぐさから感じることができるようになっていた。
理香はいつからか美玲の母親として、あとアンティークショップの経営者としての責任感から、知らず知らずのうちに緊張感を持って暮らしているのが普通になっていた。
そうしたことから、ふっと心が軽くなって、子供の頃の思いに戻ってもいい場所や時間が、村上さんのカフェ「ラパン・アジル」にはあった。
恋心だけでは、理香は再婚したいという気持ちや、誰かと一緒に生活したいという気持ちまで踏みきれなかっただろう。
村上さんに理香が「私とつきあってほしいです」と告白するよりも先に、美玲がノートに書いてみた小説を、村上さんに読んでもらっている。高校二年生から三年生になる直前の春休みである。
村上さんは美玲が同性愛者であることを、創作ノートの小説を読んで知った。
(ああ、なるほど。これは母親の理香さんには、相談できなかったんだろうな)
理香は、一人娘の美玲がどんな葛藤を抱えているのかを想像できていなかった。
美玲は村上さんに自分の葛藤を打ち明けることができた。しかし詩人メンバーの天崎悠のように、同性愛者であることを隠し続ける緊張感を抱え続ける人もいる。
一緒に暮らしている親子であっても、わかりあえないこともある。
美玲が高校三年生の桜の季節、理香は村上さんに自分の恋心を告白して交際を申し込んだ。
「理香さん、僕は美玲ちゃんに、大学へ進学してみたらどうかと、アドバイスをしました」
「はい、美玲から国立大学を受験するつもりだと聞いています。それも早稲田大学の文学部なんて驚きました。理由を聞いたら村上さんの通っていた大学だからって」
村上さんは、美玲の大学受験が終わるまでは、理香との交際の返事は待ってほしいと答えた。
美玲は、早稲田大学第一文学部演劇映像学科を卒業後、作家として執筆活動をしながらカフェ「ラパン・アジル」のウエイトレスとアンティークショップ「カンパネラ」の店番を、高校生の頃と同じように、メイド服姿で、てきぱきとこなしていた。
デビューしたからといっても、ライトノベルを執筆している本宮勝己とは逆のタイプの美玲は、寡作な作家だったので、生活費はアルバイトをして稼いでいた。
執筆するだけで生活できるという作家は、実は多くない。たとえば山口誠司のように、カルチャーセンターの講師をして収入を確保しながら執筆活動をする作家もいるし、アルバイトをしながら執筆活動している作家などもいる。
まず美玲の小説は、大手出版社のWeb小説サイトで無料公開された。このWeb小説サイトで、先に本宮勝己がライトノベルの小説を公開していたので、美玲も連載してみた。
美玲は大学受験と同時進行で小説の連載を続けていた。母親の理香は大手出版社のWeb小説サイトを知らなかったので、美玲の私小説とも、日記やエッセイ風とも読めるフラットな文体で書かれた小説を母親の理香が読んだのは、書籍化されてからだった。
「正樹さん、美玲がレズビアンだと知ってたんですか?」
「うん。僕はこの小説の下書きを読ませてもらっていたから」
「ああ、私、どうしたらいいのかしら?」
「もし、理香さんが美玲ちゃんを非難するなら、僕らは別れなきゃならないね」
「え?」
「理香さんは、村上正樹という僕をパートナーにしたいと思ってくれた。でも、それは世間一般の女性からしたら、かなりレズビアンよりも少数派かもしれないね。でも、僕らの交際を誰かから非難されるのは嫌じゃないかな?」
理香はそう言われて、隣でベッドに裸で寝そべっている村上さんの腹の上に、美玲のデビュー作の載っている文庫本を乗せた。
「そうね、あー、なんか私、ホットケーキが食べたいわ」
「わかった。ありがとう」
美玲が村上さんにカミングアウトしておいたことは、母親の理香に現実を受け入れさせることに役立ったらしかった。
美玲はのんきでがんばり屋の母親の理香が、一人娘がレズビアンだと知ったら、かなり動揺するのを予想していた。
理香の動揺を落ちつかせて受け入れさせるには、理香が惚れている村上さんにまかせてみようと決めて、デビュー作の小説をWeb小説で発表した。
美玲は村上さんと母親の理香の恋愛関係のほうが、小説向きだと思っている。
理香と美玲の関係は、何も変わらない。
しかし、理香にとっての世界の常識は、村上さんの珈琲とホットケーキの味によって変わっていった。
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