★第26話 言葉にできない
1
KSは、大学を休学する選択をした。退学ではなく休学すると父親に告げた。
「したい」ではなく「する」と決めたことや、もう大学には連絡済みであると報告した。
騒いだり否定されると思っていたが「そうか」とだけ言って、彼の父親はため息をついたあと椅子から立ち上がり、リビングから自室へ戻ってしまった。
父親と母親の3人で話し合いたいという内容の手紙を、彼は書いた。また、その手紙を母親から父親に手渡してもらった。
父親とは同じ家に暮らしているのに、たまに見かけるだけで声もかけることもなくなっていた。
(また、この人は逃げるのか)
KSは話し合いの場から立ち去る父親の背中に、マグカップを投げつける自分を想像した。
だが、実際はテーブルの下で爪が食い込むほど手を握りしめて、目の前の手をつけていないコーヒーを涙目で見つめていた。
言葉にできない。
KSは、自分が今、怒っているのか、悲しんでいるのかわからなくなっていた。
2
KSが家庭の事情を、食事のあと話し出すのを聞いて、竹宮薫は深くうなずいた。
森山猫こと本宮勝己から、自立支援ホームを紹介してもらい、KSは竹宮薫に会いに行った。
KSは大学を休学して、実家を出て、竹宮薫の自立支援ホームで暮らすことにした。KSは約一年ほどの引きこもりを経験した。
三日間の引きこもりも、十年間の引きこもりも、同じこと。
親子関係や身近な人間関係と自分の関係のねじれに対して、逃げて生きのびる手段だと思ったと、竹宮薫にKSは話した。
3
本宮勝己のインタビューを受けた匿名希望の22歳の女性――
佳菜は竹宮薫を「お母さん」と呼ぶので、KSは佳菜を竹宮薫の娘だと思っていた。
KSは佳菜が生活保護を受給しながら、週に一度、竹宮薫と会うために通って来ている理由を、佳菜から聞かされるまで、まったく知らなかった。
佳菜の部屋で、KSは彼女の事情を聞き終えたあと、彼女の手を震えがおさまるまで握って、一緒に泣いていた。
「もう大丈夫……ありがとう」
「うん」
4
レンタカーでドライブして、歳上の会社員は、佳菜をラブホテルに誘った。
遠出して、水族館から駅まで遠いラブホテルを選んでいた。
駐車場で「断るなら、佳菜を置いて帰る」と歳上の男性社員は言った。
初体験。
それは今後の性的な自尊心を左右する出来事であるといえる。
(痛い、熱くて擦り切れるみたいに痛い)
「……痛いっ……ヤダっ……これ以上、無理……ごめんなさい」
ラブホテルで、佳菜に射精前に拒絶された男性は、ソファーで煙草をふかしながら、まだベッドで横たわる佳菜にぼやくようにため息をついてこう言った。
「は~っ、
この日、佳菜は身体が傷ついて血が出たのを忘れられない。
そして、心も傷ついて血が出た気がした。
5
佳菜は5歳の時に、母親に繁華街に置き去りにされた。母親は今も失踪して行方不明である。
その時の恐怖は、佳菜の心からまだ消えていない。男性の強引な誘いに、彼女は青ざめながら従ってしまった。
ギリギリでおあずけにされた同じ会社に勤務する男性社員は、デートの日から、職場でも佳菜を避けているような態度になった。
職場の清掃会社を逃げるように佳菜は退職した。
佳菜は退職後、鬱病だとクリニックで診断された。
今は、竹宮薫とのカウンセリングのため、一週間に一度、自立支援ホームへ通えるまでは、気持ちが落ち着いていた。
6
交際することを報告した二人の顔をしげしげと竹宮薫はながめて笑いながら、こう言った。
「二人ともなんかスッキリしたいい顔になったねぇ」
竹宮薫はこの二人が悩み、ぶつけどころのない怒りを抑圧しているぎこちない表情をしていた頃の顔つきを見てきた。
恋愛すれば、すべての問題が解決するわけでも、理不尽な対人関係のねじれが世界から消えるわけでもない。
けれど、悩んで混乱していることから、竹宮薫が二人の顔つきを見るかぎりでは、KSと小林佳菜はうまく抜け出すことができたようだった。
7
「……ごめんなさい、私、セックスって怖いの。痛くてうまくできないかも」
「いいよ、無理しなくて。ゆっくりやっていこう」
「……めんどくさいって思わないの?」
「めんどくさいって何が?」
「男の人ってスムーズにできない女はめんどくさいって思ってるのかと思って」
「あのさ、好きな大切な人をめんどくさいなんて思うわけないじゃないか」
佳菜はまばたきをするのも忘れて、KSの少し困ったような表情を見つめていたが、両腕をのばして抱き寄せた。
(きっとこの人が自分の欲望じゃなくて、私のことを考えてくれたからできたんだ)
佳菜はこの日はじめて、奥まで入った実感があった。
歳下のKSが、彼女に初体験だったことを腕枕をして髪をを撫でながらおずおずと告白すると、佳菜は「ありがとう」と答えた。
8
KSにとって、自宅や腫れ物にさわるように彼に気を使う両親との生活が日常的な世界だった。
そこでそれまでの良い子供でいることに疲れきってしまった。
どうしても大学へ行く気になれない、起き上がることも、いや、息をすることすらつらいと感じた気力の尽きた朝を、彼女の暮らす部屋で、心まで裸で朝をむかえて思い出していた。
「ゲームなら、宿屋に泊まるとHPとMPが全回復するけど、今、そんな感じ」
「……私、ゲーム、したことないの。どういうこと?」
「うわぁ。うーん、よーし、中古のゲーム機を佳菜さんの部屋に置くか!」
KSは引きこもる時に、子供の頃に遊びたかったテレビゲーム機を、中古で取り寄せて自宅で遊んで過ごしていた。
KSの好きなラノベが読めるサイトや作品の話を夢中になって話すのを、おとぎ話のように小林佳菜は聞いていた。
(なるほど、このゲームの世界に心は、冒険してたのね)
佳菜は、児童養護施設で部屋の隅にしゃがんで、一人でゲーム機で遊んでいる男の子もいたのを思い出しながら、KSにおすすめされたゲームを遊んでみた。
彼はゲームの世界を想像して、その世界に心を逃げこませて、現実の世界の生きづらさに一人で耐えてきたのかと、佳菜は気づいてしまい、部屋でゲームをしながら一人で泣いてしまった。
「え、泣いちゃったの?」
KSは頭をかいて、少し考え込むと、佳菜と一緒に遊べるモノポリーとすごろくの合わさったボードゲームタイプの中古ゲームを購入することにした。
9
KSにとって、自立支援ホームの暮らしは非日常の現実の世界に思えた。
児童養護施設から出されたあと空腹のあまりスーパーで、お弁当を万引きして逮捕された年齢の近い青年は、自分が親から虐待を受けて児童養護施設にあずけられたことも、あっけらかんとした顔でKSに話す。
警察署から罰金刑で釈放されると、そのまま竹宮薫に連れられて自立支援ホームに彼は来た。
くいしんぼうのマサシと児童養護施設では呼ばれていた坊主頭で体の大きな肥満している青年は、自立支援ホームから、建築会社の面接を受けて、住み込みの会社の寮へ半月ほどで移って行った。
佳菜は自分が孤児であることを聞かされた他人は気を使うと考えて、他人に話さず隠していた。
くいしんぼうのマサシは、孤児であることをむしろ他人に自慢して目立つほうが得だと考えていると、KSに話して聞かせた。
「でもさー、養護施設よりも親がいて一緒に暮らすほうが、俺はきついと思うよ。それに、すげえ我慢しても普通だと他人から思われるだけなのは損だよな」
くいしんぼうのマサシは、得か損かで物事を考える癖があった。
そこが竹宮薫はとても心配だと、KSに話して聞かせた。
「損得勘定で考えたら、損なことのほうが世の中では多いと私は思うの。でも、長い期間で考えたらちゃんと意味があることになる場合だってある。目先のことだけで考えていたらわからないこともあるから」
「竹宮さん、それは嫌なことでも我慢しなさいってことですか?」
「そうじゃないの。自分の生き方に誇りを持つこと。我慢するか、別の生き方をするかは、自分で決めて他の人のせいにしない……ふふふっ、なんか年寄りみたいなことを言ってる気がしてきたわ」
10
KSは大学に復学するか、どこかに就職するか、正直なところどちらを選ぶか迷っていた。
ゲームやラノベが好きだが、創作を仕事にして生きていくような人生の勝負に挑む気力はない。
生まれてはじめてKSは、ラブホテルへ行った。バックには履歴書を入れて。
自立支援ホームの入所料金を、アルバイトをして稼いでみることにした。
時給に不満でふて腐れているスタッフと、まじめなスタッフ、どちらもアルバイト、パートで、使用後のラブホテルの部屋や備品を清掃する。
KSが初めて働いたラブホテルは、三人ほどでチームを組んで清掃作業を行うラブホテルだった。
備品のグラスは部屋の洗面台でさっと洗い、タオルで拭かれて、ビニールの包まれて完成。
KSは、もしラブホテルに佳菜と来ることがあっても、備品のグラスは使わないと心に決めた。
特に清掃業者を雇っているわけではなく、スタッフの感覚で清掃して完了としているので、清掃したチーム全員が、ふて腐れている場合のメンバーだった場合は、かなり残念な仕上がりの空き部屋となる。
変わった仕事のアルバイトをしたら、面接の時の話題になるかもしれないという考えも彼にはあった。実際のところ、このアルバイトの経験は、佳菜と話す時の話題になっただけだった。
すぐにすべて順調というわけにはいかない。
「あせらないで。ゆっくりで大丈夫だから」
佳菜と話すことで、KSはあせりを手放すことができた。
11
自立支援ホームに、KSの両親からの連絡や訪問はなかった。
KSの父親は大学へ彼が行かなくなったことに対して「母親として何をしてたんだ」と責めた。
KSの母親は責められて、自分が悪かったのではないかとひどく落ち込んだ。
「息子が引きこもりだなんて、会社の連中に言えるわけがないだろう、どうしたらいいんだ!」
KSが実家から出て、自立支援ホームで暮らし始めたことで、父親の不安は解消された。
しかし、KSの母親は夫から責められたことを、その後もずっと気にしていた。
KSの母親が、信心が足りないから、息子が引きこもりになったり夫が以前よりも態度が冷たくなったと言いくるめられ、自宅で教団の教材動画を見ながら手を合わせて祈るようになったことに、夫が気づいた時には、すっかりKSの母親は知り合いを勧誘して歩くようにまでなっていた。
KSの父親は、もう息子は引きこもりではなくなったと単純に考えている。
しかし、KSは子供の頃から父親のことを、血のつながった他人のような思いをすでに抱きかけていた。
(学校で友達なんて作って、何の得があるんだ?)
高校生の優等生のKSはそんなことを考えるようになっていた。
高校生の頃には、心はすでに、両親や周囲の人たちから離れていた。
時間をかけて育った親子の確執は、子供が親と離れて暮らしていても、残っている。
それは、別のかたちで親子のあいだでトラブルとしてあらわれるか、子供の心の傷が癒えていなければ、他の対人関係にも影響してくる。
またKSが体験したように、特にきっかけがあるわけではないのに、無気力になって本当につらいと感じるまで、変わらない日常を過ごしていけると、子供自身も疑がわない。
「僕はこのあと引きこもりになるつもりです」
……と親に打ち明ける子供は、誰もいない。
12
日本の産業構造が変わり続け、サービス業がおよそ7割となっている。
かつては知的障害として扱われまた差別もされてきたが、境界知能という呼ばれかたに変わった。
一般的にIQが71以上85未満で知的障害の診断が出ていない人に対して使われることのある俗称で、境界知能という診断名があるわけではない。
一般的なIQの平均は90~100といわれている。
現代ではサービス業が7割、つまり働くということは、コミュニケーション能力が不可欠とされている状況がある。
大人の境界知能の人の特徴として、たとえば仕事においては、
・口頭指示では理解が難しい。
・多くの人から指示を受けると混乱してしまう。
・漢字が多いマニュアルでは意味が理解しづらい。
・業務を覚えるのに、時間がかかる。
といったいくつかの傾向がある。
また、自分の考えを切り替えることも苦手で、固執しがちな傾向もある。
サービス業に不向きな個性を境界知能の人は持っている。
また親自身が、自分は境界知能であることに気づいておらず、子供とのコミュニケーションがうまく取れていない状況でも、自分の理解ができていないのに、子供のほうにコミュニケーション能力が不足していると思い込んでいることがある。
発達障害や境界知能の子供は、親や学校の教師から、気づかれないまま大人になることがある。
知能の遅れがあって、学業についていけない子供。
そんな偏見に近いイメージで考えられがちなので、成績が良い子供の場合には、周囲の大人たちから気づかれないことがある。
健常児よりも成績の良い発達障害児がいるはずがない、という思い込みを親な教師が持っていた場合、ADHDやアスペルガー症候群の子供の中には、成績の良い子供たちもいるということに気づかない。
気づかれなかった子供は、カウンセリングや治療をまったく受けずに大人になる。
また横並びの同調の意識の強い常識にとらわれている大人たちであれば、たとえ発達障害を疑ったとしても、親や教師はなかなかそれを認めようとはしない。
大人になっても発達障害だと気づかれず、周囲には個性と思われ続けてしまう。
(これはあいつの個性なんだから努力すれば克服してみんなと同じにできるはずだ)
そう思われて誤解されたまま、本人は努力しているにも関わらず低評価を受けて、最悪の場合はリストラされたり、非正規雇用の場合はクビにされたりする。
高学歴であれ、何もケアやサポートのないまま、本人の脳が適していない職業へ就けばどうなるのが?
発達障害の親からの遺伝率は70%~80%とも言われているが日本では気づかれていないか、本人が認めたりしない事情もあり正確な情報が集めにくい。
こうした隠れた要因も、引きこもりの問題にはある。
13
引きこもりの人たちのなかには自分がなぜ職場で努力しているのに、いじめられたり、低評価にされるのか理由を気づいておらず、挫折して、気力が尽きている人もいる。
問題は、気力が尽きたあと、どうやって自分と向き合い、気力を回復できるかということであってそれは、親の育てかたも関係なく本能レベルの問題であったり、また、親も悩み、気力を消尽してその回復の方法によっては、利益を追求する人たちに、あたかも獲物が狩られるように、搾取される危険がある。KSの母親もそうした一例だろう。
KSの父親は、息子に自分と同じ水準か、もっと有名な大企業に就職して、安定した収入を得られるように期待した。
だから、KSを就職に有利になりそうな国立の大学へ進学させたいと考えてきた。
親の期待に対して、努力してきたKSは大学入学までに、気力が一度底を尽きてしまった。
KS自身でも意識しないまま、引きこもりながらも、想像しながらラノベを読み、ゲームを遊びながら生き直すことで、自己修復のように、自分の気力を回復していった。
引きこもりになっていても、心の癒しを子供自身が見つけようと行動していることがある。
KSが森山猫こと本宮勝己に紹介された竹宮薫に会ってみたいと思った瞬間から、KSの世界は同じだけれど、別の世界に変化したといえないだろうか?
世界の在り方は、生きている人のそれぞれの主観の数だけある。
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