第36話 隠しメニューのお味はいかが?
天崎悠は父親の元愛人を誘惑したあと、その自分の他人には言えない後ろめたさ忘れ、復讐や恨みとは無縁の本宮勝己と過ごす時間で癒されるつもりで、カフェ「ラパン・アジル」で待ち合わせの約束をしていた。
思いがけない展開で、自分が恭子に対して、ずっとかんちがいをしていたと天崎悠は気づいた。
ただし、父親の忠雄が相手に援助する見返りに、性交渉を求め、岡崎姉妹のどちらにも手をつけたことが判明したので、嫌な気分になった。
(父親のせいで、心が深く傷ついていた人が母親と自分以外にも、もう一人いた)
天崎悠は夜、店に出勤する岡崎恭子がマンションの部屋を出る時に、一緒に彼女の部屋を出た。
天崎悠との待ち合わせがキャンセルになったので、カフェ「ラパン・アジル」を出て牛丼屋で食事をするか、アパートの部屋で一人でインスタントラーメンを食べるか本宮勝己は考えていた。
「やれやれ、二人とも、食事にするかね?」
椅子から立ち上がった村上さんは、美玲と本宮勝己に言った。
「美玲ちゃんは、お肉もちゃんと食べなくちゃな。本宮さんは、ちゃんと野菜も食べていますか?」
村上さんは、健康を考えて、まかないメニューを美玲に食べるようによく言っている。
美玲は、家でもあまり食事らしい食事をしたがらないと、美玲の母親から村上さんは聞いている。
「あの、村上さん……おいくらですか?」
「今日はサービスしておきます。もし気に入ったら、詩人サークルの女性たちに、セットプレートが隠しメニューであると伝えておいてください」
「本宮さん、天崎さんはたまに村上さんに注文してます。おいしいですよ」
美玲は本宮勝己にそう言って、カウンター席の勝己の隣にそっと着席した。
村上さんは、本宮勝己が三人の女性たち、つまり藤田佳乃、水原綾子、泉美玲のうちの誰がお気に入りなのか気になっている。
村上さんのまかないワンプレートメニューは、とてもおしゃれに本宮勝己には思える。
美玲があまり肉が好きではないので、野菜も多めのプレートになっている。
「おそろいですね、当たり前ですけど」
美玲は勝己にそう言って微笑してから、村上さんに「いただきます」と言った。
この日は、なすと挽き肉の炒めものをご飯にかけてあるパットガパオ風のライスに、レタスとトマトのサラダ添えのプレート。
おまけで、目玉焼きではなく、ゆで卵が半分に切られて添えられている。
彩り豊かで見た目がおしゃれに見える。
あと一緒に出されたオニオンコンソメスープだけでも、本宮勝己は、ご飯を食べる手が止まらなくなる。とてもおいしい。
「村上さん、これならレストランができますよ。すごくおいしいです!」
「気に入ってくれて何よりです。あと、誰かと食事をするのは楽しいものですよ」
本宮勝己は、のちに異世界へ飛ばされた料理人の青年が傭兵団の仲間入りして、料理の腕をふるうライトノベルを書いた。
主人公が剣技や魔法ではなく、料理を登場人物たちに食べさせることで、それぞれが抱える悩みや葛藤を和ませて解決するという物語である。
この主人公のモデルは村上さんだと、美玲はその勝己の作品を読んだとき、すぐに気がついた。
編集者からは、主人公の存在感が薄いのではと言われたが、そこは勝己が「他の登場人物たちが個性的ですから、大丈夫です」と強気で言い切った。
「ごちそうさまでした!」
勝己が子供のような満面の笑みを浮かべて、少し大きめの声でうれしそうに言ったので、美玲は勝己の横顔を、ついまじまじと見つめてしまった。
そのあと、ハッと我にかえって小声で「ごちそうさまでした」と美玲も言い、勝己の隣の席から立つと、食べ終えた食器を美玲はカウンターの奥の流しで洗った。
(あんな顔をするんだ、本宮さんって。大人なのに、なんか、かわいい感じ)
村上さんは美玲の洗い物しているあいだ、店内に流す曲を考えていた。
ビートルズの「Help!」のレコードを棚から取り出した。
「I've Just Seen a Face」が店内に流れ出す。
村上さん勝己に「珈琲のおかわりはいかがですか?」と落ちついたいつもの口調で話しかけた。
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